第2回 「棒」で歩けば「望」に当たる

■オンライン会議への違和感■

 卑近な例で恐縮だが、僕自身の最近の体験談を一つご紹介しよう。コロナウイルス対策で緊急事態宣言が出されたため、4月から、在宅勤務を強いられる日が増えている。何度かオンラインでの会議、打ち合わせも経験した。当初、オンラインでの打ち合わせは電話で話をするようなものかなと軽く考えていたが、どうも勝手が違う。僕はパソコン画面に表示される相手の顔、動きが見えない。また、複数の人の声が同じスピーカーから聞こえてくることにも違和感がある。

 普段、自分が何気なく参加する会議では、視覚以外の感覚を縦横に発揮し、周囲の人の気配をとらえていたのだと再認識させられた。通常の対面式の会議ならば、発言者の声(時に匂い・臭い)で、その人がどの方向に座っているのか、自分とどれくらいの距離があるのかがわかる。姿は見えなくても、息遣い、紙をめくる音、口調の微妙な変化などで相手の表情、気持ちをある程度推測することができる。オンラインでは、この推測が困難である。僕にとってオンライン会議は苦手なものだが、「濃厚接触」の意義を再確認できたという意味で、今回の在宅勤務を前向きに考えたい。

■虫にはなりたくない■

 さて今回は、視覚以外の感覚を考察するに当たって、僕が大学院時代から研究している瞽女(ごぜ)の話をしよう。瞽女とは、盲目の女性旅芸人である。江戸時代には三味線芸を生業とする瞽女の組織が全国各地に分布していたが、明治以降は新潟県など、一部の地区に残るのみとなった。

 学部時代から琵琶法師、イタコ(盲巫女)に加え、僕は瞽女にも関心を持っていた。瞽女の活動は新潟県を中心に1970年代まで続いており、90年代には「最後の瞽女」と称される小林ハルさん(1900~2005)が健在だった。「論文は足で書く」をモットーとする僕としては、小林さんのインタビュー調査を行うべきだろう。その気になれば、チャンスはいくらでもあったと思う。しかし、僕は小林さんに会うことができなかった。僕が瞽女の本格的な調査を開始するのは、小林さんが亡くなった2005年以後である。

 「私が今、明るい目をもらってこれなかったのは前の世で悪いことをしてきたからなんだ。だから今、どんなに苦しい勤めをしても、次の世では虫になってもいい。明るい目さえもらってこれればそれでいい……」。

 これは小林さんの発言である。「次の世は虫になっても」という強烈なメッセージに接し、僕は少なからず動揺した。「同じ視覚障害者であるおまえはどうなんだ」「うーん、やはり目が見えている方がいいかな。でも、虫にはなりたくない」。頭の中で、こんな自問自答を繰り返した。世間一般の常識では、「目が見えない=不幸」である。それゆえ、小林さんの「次の世は虫になっても」というフレーズは、ある種の共感を持って健常者に受け入れられた。瞽女とは前近代の遺物なのだから、社会の進歩、福祉制度の充実により消滅するのが歴史の必然である。このような常識に対し、僕はどんな反論ができるのだろうか。

■相互接触のなかで瞽女唄が成立する■

 盲学校、大学での多くの友人、恩師との出会いを通じて、僕は障害をプラス思考でとらえることができるようになった。一方、僕とはまったく違う障害観を持って、地を這うように生きてきたのが小林さんである。90年代、小林さんは瞽女の旅を引退し、老人ホームで余生を送っていた。小林さんに会いたい、会わなければならないと思うものの、正直なところ、彼女と話をすることで、自身の障害観が覆される恐怖感を払拭できなかった。当時の僕は、面の皮(何が起きても動じない精神力)の鍛錬がまだまだ不足していたのだろう。

 小林さんが死亡したというニュースを僕は複雑な気持ちで聞いた。それから数年後、ようやく僕は新潟を訪れることができた。残念ながら瞽女本人からの聞き取りは不可能だったが、瞽女の支援者、地元の研究者、かつての瞽女宿などを訪ね歩いた。残されている瞽女唄のレコード、CDも集めた。初めて瞽女唄を聴いた時、僕にはその魅力がわからなかった。小林さんたちの鍛え抜かれた声の迫力は十分感じることができたが、瞽女唄そのものは単調で、歌詞も聞き取りにくい。失礼な言い方になるが、「おばあさんが声を張り上げている」というのが素直な印象だった。

 瞽女唄の魅力を実感できたのは、2013年の冬に秋山郷を訪問した時である。秋山郷は長野と新潟の県境に位置しており、「日本の秘境」とも称される。秋山郷のような山奥の村落にも、瞽女は毎年のように通っていた。「待っている人がいるから、険しい山道を歩いて旅をする」「遠路はるばる、目の見えない瞽女たちが唄を届けてくれるのはありがたい」。村民と瞽女の交流のエピソードは枚挙に暇がない。

 近代的な鉄筋建築物、エアコンの効いた部屋の中で瞽女唄のCDを鑑賞しても、本物の瞽女唄を聴くことにはならないだろう。瞽女宿は、聴きたい人(村民)と聴かせたい人(瞽女)が集うライブハウスのような場である。濃密な空間の中で、瞽女と聴き手の触れ合い(相互接触)が生まれ、瞽女唄が成立する。瞽女が歩いた道を辿り、彼女たちの唄を聴くために村民が集まった古民家に身を置くことによって、初めて瞽女唄の真義を体感できたのは、秋山郷調査の大きな成果といえよう。

■この世をごく楽に生きる■

 盲人史研究を続ける過程で、伊平たけさん(1886~1977)という瞽女を知った。伊平さんは即興を得意とし、晩年には東京などでリサイタルを開いている。伊平さんの実体験に根差す独特の語り、その明るさと達観した人生論は、障害の有無に関係なく、70年代の大衆を引き付けた。リサイタルでは「しかたなしの極楽」という語を多用している。「自分の目が見えないのは仕方ないことだ」「なぜ自分がと、あれこれ考えても仕方ない」「それならば、目が見えない現実を受け入れて、この世を楽しく生きていこう」。伊平さんは「極楽とは、ごく楽に生きること」とも述べている。21世紀の日本で、どれくらいの人がごく楽に生きているのだろう。そして、僕自身はごく楽に生きているのか。

 個人的な好みはさておき、小林さんと伊平さんはタイプの違う瞽女である。瞽女唄の演奏スタイル、曲調もまったく異なる。当たり前のことだが、視覚障害者も十人十色、さまざまな人がいる。だが、世間(健常者)は「瞽女とは暗く、さびしい芸能者」とステレオタイプでとらえがちである。いろいろな瞽女がいる(いた)ことを健常者に伝えていくのは、視覚障害の当事者であり、日本史の研究者でもある僕の役割なのだろう。そうだ、己の役割を自覚し、この世をごく楽に生きるのが重要で、次の世で明るい目がもらえるかどうかを考えても、仕方ない!

■「目に見えない世界」を伝える■

 瞽女唄とは何だろうか。伊平さんは、「瞽女が唄う唄が瞽女唄である」と明快に(?)定義している。瞽女唄は説教節・浄瑠璃・端唄など、多種多様な語り物、民衆芸能を融合したもので、そこには明確な音楽的特徴はない。また、師匠や居住地域の違いにより、瞽女唄のレパートリーは多様で、同じ曲の演奏でもバリエーションに富んでいる。そもそも、瞽女唄は門付、村民たちの宴会の場で披露されることが多い。聴衆のリクエストに柔軟に対応できるかどうかが、瞽女の力量ということになる。

 2013年に米国に滞在した際、スティーヴィー・ワンダーは瞽女に似ているのではないかということに気づいた。スティーヴィーはさまざまなジャンルの音楽を取り入れ、シンセサイザーを用いて独自の作曲スタイルを確立した。古今東西、盲人は音と声を駆使して、「目に見えない世界」を表現することに長けていた。たとえば、スティーヴィー・ワンダーはシンセサイザーの音で宇宙や人間の心をイメージする曲を作り、高橋竹山は三味線で、自分は見たことがない津軽の風景を鮮やかに描写した。

 宮城道雄は、水を主題とする数多くの曲を発表している。「ロンドンの夜の雨」は、彼がロンドン滞在中に雨の音を聴き、即興で作った曲である。ロンドンの街路や建物の屋根に落ちる雨音、行き交う人々の足音は、彼が暮らす東京とはまったく違うものだっただろう。宮城が活躍した時代、ロンドンを訪問できる(見ることができる)日本人の数は限られている。聴衆にどうやって、どれだけ「目に見えない世界」を伝えることができるのか。宮城をはじめ、盲人芸能者たちはこの点にこだわって、自身の腕を磨いた。

 中世に琵琶法師が伝承した『平家物語』は、もともと平家の亡魂供養、死者への慰めのために語られていたといわれる。死者の世界は、目に見えないものの代表だろう。あの世とこの世を自由に往還できる琵琶法師の職能は、東北地方の盲巫女にも共通している。平家の滅亡から50年ほどが経過すれば、リアルタイムで合戦の様子を見た人はいなくなる。誰も見たことがない源平の合戦。その場面を音と声で見事に(見てきた事のように)再現したのが琵琶法師だった。

 現在の僕たちにとって平曲(『平家物語』を琵琶に合わせて語る芸能)はスローテンポで単調な音楽であり、眠くなってしまう人も多い。しかし、南北朝期にはこの平曲が大流行した。中世の人々は平曲を聴いて、「見たことがない風景」を想像・創造して楽しんでいたのである。

■鼻印・耳印・足印■

 先ほど、不遜にも「瞽女唄はおばあさんが声を張り上げている」と書いた。僕自身の感性もだいぶ鈍化していることを認めなければならない。20世紀後半以降、テレビやインターネットが普及し、「目に見えない世界」は軽視されるようになった。21世紀、視覚優位の現代社会を生きる視覚障害者は、もっと「目に見えない世界」の価値を自覚し、積極的に発信していくべきだろう。

 小林さんや伊平さんの三味線演奏は、いうまでもなく「目の見えぬ人が苦労して、わざわざ遠くまで来てくれるからありがたい」という労り、労いの感情のみで支持されていたわけではない。同情心だけでは、数百年に及ぶ盲人芸能の維持・発展はなかっただろう。瞽女も琵琶法師も全国を旅した。彼らの旅では、視覚以外の感覚が総動員される。たとえば、僕が日々通勤する際、白杖の音の響きで道の幅、前方の障害物の有無を把握できる。顔の皮膚で風の流れを察知する(この場合、面の皮は厚くても、繊細でなければならない)。さらには花のにおい、鳥の声、地面の凹凸はそれぞれ鼻印・耳印・足印となる。鼻印・耳印・足印をどれだけ有効活用できるのかが、視覚障害者の単独歩行のポイントだといえる。

■優しい社会への危機感■

 瞽女や琵琶法師が旅をする場合、外界の情報を効率よく得るために触角(センサー)を伸ばす。手、さらにはその延長である白杖(かつては木の枝などの棒)はセンサーの代表だが、触角は耳や鼻はもちろん、全身に分布している。外界に伸ばされたセンサーは、次の段階では内界(自己の内面)へと向かう。瞽女や琵琶法師がセンサーで捕捉した種々雑多な情報が、内界から湧き上がる唄となって表出される。伊平さんの定義を僕流に敷衍するなら、「瞽女唄とは、盲目の女性が触角でとらえた世界、すなわち旅で出合う『目に見えない風景』を音と声で表現した唄」ということになるだろうか。

 視覚障害者にとって、歩くとは全身の触角を鍛える実践である。毛穴から伸びるセンサーを手入れするメンテナンス作業が、盲学校やリハビリ施設での歩行訓練だということもできる。盲人芸能において、歩くことと語ること(演奏すること)は表裏一体だった。誤解を恐れずに言うなら、歩くことをやめた時、琵琶法師や瞽女は消滅したのである。僕はガイドヘルパー(外出支援者)制度の拡充を喜ぶ一方で、視覚障害者たちを一人で「歩かせない」優しい社会に、ある種の危機感を抱いている。さあ、棒(白杖)を持って歩め、されば望(希望)が見えてくる!

次回は6月2日更新予定です。
この連載をもとに、2021年へと開催延期になった国立民族学博物館のユニバーサル・ミュージアム特別展に向けた動きや、世界中から集められた民族資料と「濃厚接触」して世界を感触でとらえた記録なども付け加えた書籍を、小さ子社より今夏刊行します。ご期待下さい。

このWeb連載が本になりました!

広瀬浩二郎『それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける!』
2020年10月27日刊行

「濃厚接触」による「さわる展示」・「ユニバーサル・ミュージアム」の伝道師として全国・海外を訪ね歩いてきた全盲の触文化研究者が、コロナ時代の「濃厚接触」の意義を問い直す。

2020年5月~7月に公開されたWeb連載に大幅加筆。

さらに、中止になった幻の2020 年 国立民族学博物館企画展「みてわかること、さわってわかること」より、民博所蔵資料60 点をカラー写真で紙上展示。著者の触察コメントを付す。

本体価格1,500円

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著者による「濃厚接触」ワークショップ動画
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