第5回 目に見えないクレジット

■マスクを着けて「散歩=惨歩」する■

 大阪は梅雨入りして、蒸し暑い日々が続いている。外出する機会が少しずつ増えているが、どうもマスクには抵抗がある。新型コロナウイルスの感染防止に心がけるのは重要であり、もちろんマスク着用を否定するつもりはない。しかし、マスクを着けると「野生の勘」が損なわれてしまうと、僕は感じている。

 僕が勤務する国立民族学博物館は、万博記念公園の中にある。普段は公園内を15分ほど歩いて通勤している。お恥ずかしい話だが、5月の出勤の際、何度か公園内で迷ってしまった。20年ほど通っている道で迷うとは、我ながら情けない。「久しぶりの通勤で、感覚が微妙に狂った」「ぼうっと歩いており、集中力を欠いていた」など、理由はいくつか考えられる。在宅勤務が多く、運動不足なので、「たまにはしっかり歩け」ということなのかもしれない。道に迷って運動量が増加するのは悪くないが、「ここはどこ?」状態で歩くことを強いられるのは、散歩ではなく惨歩である。

■視覚障害者の単独歩行とは■

 視覚障害者の単独歩行では、全身の感覚が総動員される。いうまでもなく音、においは大切な情報であり、顔の皮膚(肌)では風の流れ、人や物の気配を察知する。「顔」にはセンサー(触角)が集まっている。マスクを着けると、このセンサーが明らかに鈍る。音の聞こえ方も変わるし、肌がキャッチする情報も少なくなる。加齢による触角の衰えは別として、僕が心ならずも「散歩=惨歩」させられた原因の一つがマスク着用にあるのは間違いない。マスクを使うことで、あらためて視覚障害者の歩行は繊細なものなのだと実感した。

 変な言い方になるが、僕たち全盲者は「顔」が勝負である。視覚障害者の「顔」には、人間本来の「野生の勘」が集約されている。「50歳を過ぎた僕も、もっとワイルドに生きていかなければ」。「散歩=惨歩」の途中で、いつの間にか僕は縄文時代にタイムスリップする。「未知なる道」を歩む妄想(盲想)がどんどん広がっていく。

 マスク着用の負の面を強調してきたが、なんとかこの状況をプラスに転じることができないだろうか。以下は妄想(盲想)の産物、いつものごとく語呂合わせである(こんなことばかり考えているから、道に迷うんだよなあ)。マスクとは、
だするの、またするの」
らすら・すたすた歩けない」
たびれる」。
おやおや、これではちっともプラス思考にはならない。そこで、英語バージョンをひねり出してみた。

■マスク(mask)の新解釈■

 ①Manner: マスク着用の真意は、自分の安全のためのみならず、他人への配慮、優しさの表出だろう。自分が感染しないことよりも、他人を感染させない意識が肝要である。他人を思い遣るマナーを大事にし、夏場にマスクを付ける煩わしさに耐えていきたい。万人が感染対策のマナーを習得すれば、ウイルスを過度に恐れる必要はない。

 ②Aware: 僕はマスクを着けることによって、視覚以外の感覚の意義を再認識した。失われる(塞がれる)ことで、初めてわかるものがある。「そうか、顔でいろいろな情報を得ていたんだ」。この気づきをきっかけとして、縄文人のようにワイルドな「顔」を持つ健常者が増えることを願っている。

 ③Scenery: マスクの有無で、風の感触は異なる。大げさに言うと、これは風景に対するイメージの転換である。世界のとらえ方が変化するともいえる。僕には風景画は描けないが、マスク使用から生まれる新感覚は、ユニークなアートを創造する源泉になるのではなかろうか。多彩なアーティストたちの触角を介して、風景の概念が深化することを期待しよう。

 余談になるが、通勤路で迷ったこともあり、僕は最近、公園のゲートを入ると、マスクを外すようにしている。広い園内では「3密」を回避できるので、マスクなしでも許していただきたい。太陽の塔の真ん前でマスクを外す解放感(開放感)、「顔」がいきいきと働き始める心地よさが、僕の密かな楽しみになっている。「芸術は爆発だ!」やはり太陽の塔は「野生の勘」を取り戻す場にふさわしい。目に見えない太陽の塔を思い描いていると、また僕の妄想(盲想)が拡大する。

 ④Knock: マスクは、残された感覚をどれだけ有効活用できるのかを問いかける試金石でもある。マスクで顔の3分の2は覆われるが、目から上の部分は露出している。さあ、顔の上3分の1の触角をもっと磨こう。額でさまざまな事物を感知できるようになれば、「第三の目」が開眼するかもしれない。マスクは、体内に眠る潜在力を呼び覚ますノックの役割を果たす。マスク着用の違和感は、じつは新たな能力を開発するチャンスでもある。

 以上、前置きが長くなった。これから、マスクを着けない素顔の僕のアメリカ体験記の中編である。「野生の勘」全開でお読みいただきたい(何のことやら……)。

写真:マスク着用で白杖を持ち万博公園内を歩く様子
マスク着用で万博公園内を歩く。最近は、知人が作ってくれた「涼しいマスク」を愛用している。

■悪口は関西弁で■

 米国滞在4日目、ミシガン大学からミシガン州立大学へバスで向かった。所要時間は2時間弱。同じ州内の移動だが、小旅行気分である。米国でバスを利用する際、運転手とのコミュニケーションが不可欠となる。日本のように充実した車内アナウンスはないので、自分がどこまで行くのか、どの停留所で降りたいのかをきちんと伝える。目的地が近づいたら、運転手が声で知らせてくれる(ことになっている)。

 でも時々、(悪気はなく)運転手が僕のことを忘れてしまう。「あのー……、僕の降りる停留所はまだですか」「ごめん、もう通り過ぎちゃったよ」。過ぎちゃったと言われても困る。といって、逆戻りしてもらうわけにもいかない。こんな時は日本語で運転手の悪口を言って、しぶしぶバスを降りることになる(ちなみに、悪口は「バカ」だと伝わる恐れがあるので、関西弁の「ボケ」「アホ」がいいだろう)。過去に何度かバスで苦い経験をしたが、ミシガン州立大の停留所は終点なので安心である。

■クレジットカードの背後にあるもの■

 海外出張すると、クレジットカードを使う機会が増える。米国は日本よりもキャッシュレス化が進んでいるし、両替の手間を考えると、クレジットカードが便利である。今回のような中・長距離バスの料金も、クレジットカードで支払う。僕が言うのもおかしいが、画面表示、レシートの文字が見えない視覚障害者を騙すのは簡単だろう。たとえば、バスの実際の料金は20ドルなのに、30ドルでクレジット決済する。あるいは、レストランで勝手にチップの金額を上乗せするなど。だが幸い、僕はクレジットカード使用で損したこと、騙されたことは(たぶん)ない。

 いうまでもなく、クレジットの原義は信用・信頼である。クレジットカードの背後には、人間に対する信用・信頼があることに、今更ながら感心させられる。そんな僕の思いを知ってか知らずか、バスの運転手は僕を最前部の座席に案内する(ここなら、忘れられる心配はなさそう)。

■コロナ禍で授業参加がキャンセルに■

 僕がミシガン州立大に到着した日、すでに授業はすべて休講になっていた。大学博物館のスタッフも迷ったようだが、僕の講演会は予定どおり夕方に実施された。残念ながら学生の出席が少なく、ややさびしい講演会になってしまったが、その分、アットホームな雰囲気で参加者と交流することができた。学外のミュージアム、関係団体からの参加者も複数いた。とくに、ミシガン州の視覚障害者リハビリ施設(the Bureau of Services for Blind Persons Training Center)から3名の職員がわざわざ来てくれたのは嬉しかった。

 講演の翌日は、学部生の日本史の授業に出席し、僕の研究について話をすることになっていたが、大学閉鎖によりキャンセルされた。講演会終了後、視覚障害者施設の方との雑談の中で、翌日がフリーになったことを告げると、ありがたいお誘いをいただいた。「それならば、リハビリ施設の見学に来ればいい」「私たちの施設には、全盲の日本人スタッフもいる」。僕は、米国の福祉施設で日本人が働いていることに興味を抱いた。すぐに話がまとまり、リハビリ施設の元入所生の中途失明者と、その娘さんが車を出してくれることになった。この母娘とは初対面だったが、優しそうな声を聞いて、僕は同行をお願いすることにした。

■国境を超えるクレジット■

 僕の同僚には世界各地の少数民族、先住民の調査に取り組む研究者が多数いる。「視覚障害者は少数民族に似ているのではないか」というのが僕の持論である。マイノリティ(少数派)という面で、視覚障害者とアイヌ、ネイティブアメリカンなどには共通する部分が多い。各国の視覚障害者は、言語や生活習慣がまったく違う。しかし、どこの国・地域にも視覚障害者が確実に存在する。海外出張すると、僕は可能な範囲で現地の視覚障害者施設を訪問し、当事者団体の会合などに顔を出すことにしている。言葉は十分通じなくても、同じ視覚障害者ということで、なんとなくシンパシーを感じる。「そうか、あなたたちも頑張っているんだよな」。この感覚は、僕たちが海外で日本人に出会う時の安心感に近いのかもしれない。

 また福祉制度、教育システム、支援機器の性能など、各国の視覚障害者事情を実地調査すれば、その国の社会・文化のあり様を知ることもできる。視覚障害者間には国境を超えるクレジット(信用・信頼)があると、僕は信じている。過去に海外で知り合った視覚障害者たちのことを思い出しながら、僕はホテルのロビーで迎えの車を待った。「今日はどんな人に会えるのだろう」。目の見えない人々の、目に見えないクレジットには感謝したい。蛇足だが、当日の昼食(中東料理)、夕食(アメリカンスタイルの寿司とラーメン)はリハビリ施設の方々のおごりだったので、僕のクレジットカードの出番はなかった。

■電話・ガラケー・スマホ■

 リハビリ施設のある田舎町まで、車で2時間ほどかかる。バスや車が高速で長時間走っても、まだミシガン州内なのだから、やはりアメリカは広い。窓の外の景色を見ることができぬ視覚障害者にとって、車での長距離移動はさほどエキサイティングなものではない。そんな視覚障害者との付き合いに慣れているのか、車を運転する娘さんが、通り過ぎる町の特徴について簡単な説明をしてくれる。道路の舗装が凸凹なのか、スムーズなのかの違いで、その市・町の財政状況がわかるのはおもしろかった。どうやら車窓からは森や小川などの大自然、鹿やリスといった野生動物が見えるらしい。

 同乗する視覚障害女性との会話は大いに盛り上がる。「リハビリ施設ではどのような生活訓練をするのですか」「どんな仕事をしている(いた)のですか」。先方からも日本の視覚障害者の現状に関して、さまざまな質問が投げかけられる。視覚障害を切り口として、ちょっとした異文化間コミュニケーションが広がっていく。

 その女性は40代後半で失明し、リハビリ施設では点字・コンピューター・白杖歩行・調理などのトレーニングを受けた。訓練修了後は、ある保険会社でテレフォンオペレーター(苦情・相談受付)をしていたそうだ。60歳を過ぎた現在は退職し、夫と娘との3人暮らしを楽しんでいる(やはり、声だけでは米国人の年齢はわからないものである)。移動中の車内でもスマホを駆使して、週末の会合の開催可否について、友人と連絡を取り合っていた。

 日本でも、テレフォンオペレーターを仕事とする視覚障害者は多い。何といっても、聴覚と触覚で操作できる電話は、視覚障害者の大きな武器となる。ちなみに、僕はまだガラケーユーザーで、スマホを使いこなすことができない。タッチパネルのツルツルの画面は、じつはいちばん「タッチ」が必要な視覚障害者には使いにくい。なんとも皮肉な話である。とはいえ、僕の周囲でも、目の見えないスマホ愛用者が徐々に増えている。「このガラケーが壊れたら、いよいよ次はスマホなのかな」。海外でもメールと通話で何回も僕を助けてくれた携帯電話。僕はちょっと古くなった我がケータイに優しく触れる。

■「使えない」を「使わない」に転換する■

 リハビリ施設には昼前に到着した。まずは、館内のカフェで一休み。なんと、このカフェの名前は「out of sight」。「視野を外れる、視界の外」という意味だろうか。「私たちは視野・視界がなくても、堂々と生きていく」「視野・視界に頼らない人生があってもいい」。こんなメッセージがカフェの名称に込められているのではないかと僕は感じる。

 「視覚を使えない」苦労をどうすれば解消できるのか、「視覚を使わない」工夫をどれだけ習得できるのか。いわば、「使えない」を「使わない」に転換する生活の知恵を身につけるのがリハビリの眼目である。そこには、なくなったものを補う発想のみならず、見ること、見えること、見られることから解放されるという「out of sight」の積極的な意義もあるのではなかろうか。

 昼食の時間が近づき、「out of sight」カフェには白杖を持つ視覚障害者たちが集まり始める。杖の先(石突)が床を叩く音が心地よい。「この音はどこへ行っても同じだ」。米国の視覚障害者団体は、「walking alone, marching together」というスローガンを掲げている。カフェで「out of sight」の仲間たちに囲まれて、なんだか少しほっとする。入所間もない訓練生なのか、「walking alone」が危なっかしくて、カフェ内をうろうろ、ふらふらする人もいる(ああ、こんなどんくさい人と「marching together」するのはちょっとたいへんかも)。カフェの入口から、リズミカルな杖の音が聞こえてくる。いよいよ、全盲の日本人インストラクター、Tさんの登場である。

次回も、今回の続きで3月米国出張の様子をお届けする予定です。6月23日更新予定です。
この連載をもとに、2021年へと開催延期になった国立民族学博物館のユニバーサル・ミュージアム特別展に向けた動きや、世界中から集められた民族資料と「濃厚接触」して世界を感触でとらえた記録なども付け加えた書籍を、小さ子社より今夏刊行します。ご期待下さい。

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