第6回 アメリカンドリームの今昔

■開拓者精神に感服■

 いよいよ全盲の日本人インストラクター、Tさんとの対面である。Tさんは還暦を過ぎているが、若々しい声で僕を歓迎してくれる。リハビリ施設ではコンピューターのクラスで、音声ソフトを用いるパソコンの使用方法などを指導している。入所者からすると、同じ立場のインストラクターはいい目標、ロールモデルになるだろう。Tさんは米国生活が40年を超え、アメリカ人女性と結婚し、お子さんも二人おられる。英語の発音、立ち居振る舞いはまるでアメリカ人である。

 僕に対しても、周囲に人がいる時は、基本的に英語で話しかける。ただ、こちらの貧弱な英語力がすぐにわかったのか、日本語で適宜「注」を入れてくださる。ついつい僕も甘えて、日本語でいろいろな質問をする。話をする中で、Tさんが僕と同じ東京の盲学校の卒業生であることがわかった。僕よりも10歳ほど年上なので、同時期に在籍したわけではないが、何人か共通の知り合いがいて驚いた。月並みな表現だが、世界は広いようで狭い。母校の先輩が、異国で「先生」をしていることが素直に嬉しい。アメリカンドリームを実現し、職業人として逞しく生きるTさんの開拓者精神に感服した。

■1970~80年代の進学・就職事情■

 Tさんが東京の盲学校(高等部)に在学していたのは1970年代である。当時は「目の見えない人=鍼・灸・按摩(三療)」という固定観念が根強く、大学進学する視覚障害者は少数だった。点字受験を認めない大学も多く、視覚障害学生への「門戸開放」を求め、盲学校の教員たちが交渉に当たっていた。触覚を活用する三療が視覚障害者の適職であるのは間違いない。問題なのは、職業的選択肢がそれしかないという実情である。Tさんたちは三療以外の新職業の道に進むことを夢見て、盲学校を飛び出していった。

 Tさんの卒業からほぼ10年後、僕は盲学校で中高の6年間を過ごした。そのころは点字受験できる大学も増え、「門戸開放」という語はほとんど聞かれなくなっていた。大学進学者の課題は、入学後の学習環境の整備に移ったのである。「どうやって大学に入るのか」から、「どうやって大学で学ぶのか」への進化は、日本社会の成熟を示しているともいえるだろう。高校時代、僕のクラスメートは20名で、入学直後はほぼ全員が大学進学を希望していた。しかし、高3になり、具体的に「将来」を考え始めると、約半数の生徒が三療の道を選んだ。「大学に進学しても、卒業後の就職は厳しい」「好きなことをやって食べていけるほど、世の中は甘くない」。これは盲学校関係者の共通認識だった。

 障害者の人権が軽視されていたTさんの時代は、より深刻な状況だっただろう。「決められた職業(三療)に就くのはいやだ」「苦労・失敗してもいいから、自分の意思で進路を決定したい」。80年代以降、社会の「障害」に対する意識が少しずつ変わってきた背景には、Tさんをはじめ、たくさんの先輩方の努力があったことを忘れてはなるまい。

■「人間はそれぞれ違うのが当たり前」という米国の価値観■

 英語が得意なTさんは、高校在学中から英会話教室に通い、実力を磨いた。国連の同時通訳者になるのが夢だったという。そんな明確な目標もあったので、高校卒業後、日本の大学には進学せず、米国に留学した。今回、Tさんとじっくり話をしたのは半日のみだったので、彼の米国での歩み、就職に至るプロセスについては十分うかがうことができなかった。日本人だという理由で、人種的な差別を経験することもあったようだ。

 同時通訳者にはなれなかったが、30歳を過ぎたころ、Tさんは当事者性を活かして、視覚障害関連のカウンセリングを担当する職を得る。ミシガン州の社会福祉局に勤務し、各種相談業務に従事する。中途失明した本人、家族を訪ねる日々は充実していた。古今東西、視覚障害者は人の話を聴く、人に話をすることに長けている。カウンセラーは「目に見えない」心を相手にするので、視覚障害者の適職ともいえるだろう。

 Tさんは仕事でパソコンを使う機会も多く、情報処理の知識と技術を実践的に学んでいった。やがて彼はコンピューターの専門家として、ミシガン州内のリハビリ施設の指導員となる。日進月歩するICTの動向を踏まえ、より便利に、より快適に機器操作ができる環境を整えるのは容易なことではない。常に自身のスキルアップも求められる指導員として、Tさんは自己の仕事にやりがいを感じておられるようだ。

 1970年代、「三療しかない」日本の現実に閉塞感を抱き、アメリカ留学をめざす視覚障害者が、Tさん以外にも複数いた。「米国には全盲の弁護士、大学教授がたくさんいる。医者にだってなれる」「やはりアメリカは日本よりも進んでいる」。日本では大学に入るのも儘ならないのだから、自分の可能性を信じて米国に渡ろう。先が見えないのは同じなら、現在への絶望(不満)ではなく、未来への渇望(不安)を選ぶ。これは盲青年らしい選択といえるだろう。

 僕が最初に米国の大学に留学したのは1995~96年である。研究者の道を模索していた20代後半の僕は、「日本よりも進んだアメリカ」を実体験したいという思いが強かった。米国は「機会均等」「能力主義」を理念とする国家だといわれる。たしかに、現代社会において「能力」があると見なされる人には、進学・就職のチャンスが与えられる。「障害」があっても、過酷な生存競争に勝ち抜けば、自らの手で夢を実現することができる。弁護士・大学教員・医師をはじめ、社会の第一線で活躍する視覚障害者の事例は多い。米国は障害者にとって自由・平等であるのは間違いない。

 肌の色・宗教・言語など、多様なバックグラウンドを持つ人々が集まる米国では、「人間はそれぞれ違うのが当たり前」という価値観が社会に浸透している。この「違い」の中に、ごく自然に障害者も含まれている印象を受ける。僕も何回か米国に暮らしてみて、「障害を気にせずに生きていけるのは、日本よりもアメリカの方かな」と実感させられた。

■能力主義社会の現況■

 では、アメリカの障害者は幸福なのかと問われると、僕は答えを躊躇する。「こんな人がいる」「あんな仕事もできる」と、アクティブな障害者のニュースを見聞きすると、やはりアメリカはすごいと感じる方が多いだろう(20代の僕もそうだった)。ところが、実際にアメリカで生活し、ちょっと深くコミュニティに入り込んでみると、現実の厳しさを思い知らされる。米国の障害者の就業率は、日本よりもはるかに低い。マスコミ等で取り上げられるのは一部のエリートのみで、大多数の障害者は職を得ることすらできず、困窮している。これが能力主義社会の現況なのである。

 安定した職、家族に恵まれたTさんは(ご自身にとっては不本意な部分もあるかもしれないが)、アメリカンドリームを掴んだ成功者だといえる。もちろん、アメリカに渡った日本の視覚障害者が、すべて成功したわけではない。Tさんと同世代の全盲者の体験談を聞いたことがある。その方は米国の大学院修士課程修了後、就職先がなく、金銭的にも行き詰まった。背に腹はかえられず、数年間、路上で物貰いをしていたという(物貰いでもなんとか生活できるのだから、アメリカ社会は奥深いともいえる)。ハードな自由競争に耐えられず、留学を途中で切り上げて、「遅れている」日本に戻るというケースも少なくない。日米のどちらが進んでいるのかは、単純に判断できない(してはいけない)というのが僕の感想である。

■視覚障害者の職業 伝統と革新■

 国際的にみても、日本の視覚障害者の就業率は高い。いうまでもなく、それは三療の伝統が維持されているからである。江戸時代以来、按摩・鍼・灸の生業は、視覚障害者の手から手へと受け継がれてきた。昨今は東洋医学ブームもあり、健常者が三療業に進出している。盲学校の専攻科(三療の専門課程)で「手に職をつければ」食べていけるという時代ではなくなった。Tさんが盲学校で学んだころの「按摩にでもなるか」「按摩にしかなれない」という状況は、いい意味でも悪い意味でも変化した。今後は三療の世界でも、視覚障害者が自らの「手」で職を勝ち取っていかなければならないだろう。

 Tさんたちとの夕食の際、視覚障害者の就労問題の話が出た。アメリカでも全盲者が就職するのはきわめて難しい。リハビリ施設では、訓練修了後の進路の確保が大きな課題となっている。僕は「日本では視覚障害者が伝統的に三療業に携わっており、そのおかげで今でも職業的に自立している人が多い」と発言した。すると、すかさずTさんが「私は『視覚障害者=三療』という固定観念に抵抗して、米国に来たんだ」と応じる。「有無を言わさず、みんな三療をしなさいだなんて、共産主義みたいだね」とTさんの同僚が苦笑する。

 就職・就労は視覚障害者にとって永遠のテーマである。僕は共産主義という語に多少の反発を感じたが、米国人を納得させるような解決策を提示することができなかった。三療以外の職業的選択肢が増えるのはすばらしいことで、僕自身もその恩恵に浴しているのは疑いない。それでは、三療に代わる視覚障害者の適職はあるのだろうか。いや、そもそも米国風に考えるなら、適職という発想がナンセンスなのかもしれない。伝統と革新の葛藤は、各地の先住民社会にも広く見られる現象である。引き続き「目に見えない」クレジットを利用して、世界の視覚障害者事情の人類学的な調査を深めていきたい。

■柔軟さと遊び心を突破口に■

 Tさんたちとの夕食会場は、中国系アメリカ人が経営する日本食レストランだった。アメリカでは「○○ロール」という創作寿司が流行しており、ミシガンの田舎町にも「ジャパニーズ」の看板を掲げる店がある。30代の僕は「アメリカのスシは寿司じゃない!」と憤慨していたが、最近はバラエティに富むスシの味をけっこう楽しんでいる。「スシは多文化共生を標榜するアメリカのシンボルかな」。もしかしたら、寿司をスシに変えていく柔軟さ、遊び心に、深刻な障害者の職業問題を改善する突破口があるのではなかろうか。

 日本人は「寿司とはこうあるべきだ」という理想、自信を持っている。一方、アメリカ人は「日本の伝統は認めるけど、こんなスシがあってもおもしろいでしょう」と、新たな選択肢を示す。ここで、寿司を食べる日本人が「健常者」だとすれば、試行錯誤してユニークなスシを提案するアメリカ人は「障害者」に置き換えられるだろう。はてさて、研究者である僕はどんなスシを創って、健常者の食欲をそそることができるのか。帰りの車の中、少し疲れた頭で僕は考え続けた。(それにしても、今日のスシは悪くなかったが、あの生ぬるいラーメンは日本人として許せないぞ!)

①アメリカナイズされた日本食1=癖になる味「Sukiyaki-Don」(2013年9月撮影)

②アメリカナイズされた日本食2=ジャパニーズフードの定番「Teriyaki-Chicken」(2013年8月撮影)

③アメリカナイズされた日本食3=ちょっと名前が変だけど「Pork-Tonkatsu」(2013年9月撮影)

④シカゴのスーパーで購入した「Inari Roll」(2013年10月撮影)
⑤シカゴにある日本食レストランの「ちょっと怪しいスシ」(2013年8月撮影)

※アメリカナイズされた日本食の数々(2013年~14年に在外研究でシカゴに滞在した時に撮ったもの)。
拙著『身体でみる異文化―目に見えないアメリカを描く―』(臨川書店、2015年)もご参照ください。

■体外出張を終えて■

 僕が訪ねたミシガン州のリハビリ施設のカフェの壁には、世界地図のレリーフが飾られている。「out of sight」(連載第5回参照)の面々は、手探りで空想の世界旅行を楽しむ。ここでいう手探りとは、視覚から触覚への転換を通して、新しい世界観を獲得するという意味である。誰のアイディアなのかはわからないが、「out of sight」の装飾品として、さわる世界地図はきわめて有益だろう。

 僕はこの地図に何気なく触れて驚いた。いつもの癖で日本の位置を指先で探すが、なかなか発見できない。そのうち、僕は気づいた。「この地図はヨーロッパが中央に配置されている!」アメリカ大陸は地図の左側にある。そして、日本は地図の右端に小さく盛り上げられている。「日本=極東」という西洋人の認識が、実感を持って僕の指先から伝わってくる。

 この極東の小国からTさんはアメリカにやってきた。インターネットもケータイもない時代、一人の盲青年の旅は、物理的にも精神的にも長距離、長時間の挑戦だっただろう。1995年の最初のアメリカ留学以来、自分の夢を確認するために、僕は度々米国を訪れている。僕にはアメリカンドリームを叶えるだけの知力・体力・忍耐力はない。でも、体外出張で自分の「手」をしっかり鍛えて、日本で手作りの夢を実現することにしよう。

 帰りの飛行機は昼過ぎにデトロイト空港を出て、翌日の昼過ぎに成田に到着した。10時間以上も飛行機に乗っていたのに、ほぼ同じ時間というのは不思議である。視覚障害者には明暗の区別がない。それは、昼(明るい)と夜(暗い)の境がないともいえる。いつも国際線に乗って、「世界」を手探りしているようなものである。明・暗を明確に、あるいは暗黙のうちに区別するのは、文明人(健常者)の思考様式だろう。今回の出張で、近代的な人間観、「障害/健常」という二項対立を乗り越えるヒントが得られたような気がする。

今回でアメリカ「体外出張」編は一段落。次回は6月30日更新予定です。
この連載をもとに、2021年へと開催延期になった国立民族学博物館のユニバーサル・ミュージアム特別展に向けた動きや、世界中から集められた民族資料と「濃厚接触」して世界を感触でとらえた記録なども付け加えた書籍を、小さ子社より今夏刊行します。ご期待下さい。

このWeb連載が本になりました!

広瀬浩二郎『それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける!』
2020年10月27日刊行

「濃厚接触」による「さわる展示」・「ユニバーサル・ミュージアム」の伝道師として全国・海外を訪ね歩いてきた全盲の触文化研究者が、コロナ時代の「濃厚接触」の意義を問い直す。

2020年5月~7月に公開されたWeb連載に大幅加筆。

さらに、中止になった幻の2020 年 国立民族学博物館企画展「みてわかること、さわってわかること」より、民博所蔵資料60 点をカラー写真で紙上展示。著者の触察コメントを付す。

本体価格1,500円

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著者による「濃厚接触」ワークショップ動画
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