稲葉神社

稲葉神社に伝わる日記と寛文近江・若狭地震

「『京都の災害をめぐる』余話」は、
企画制作の裏話や、本には書ききれなかった補足事項など、本書をより楽しんでいただくための文章を著者に寄稿していただく企画です。

 

『京都の災害をめぐる』の143番「稲葉神社」の項は最初の原稿から大きく変わっています。原稿をある程度まとめた段階で、共著者や編集者に読んでもらっているなかで矛盾点をご指摘いただき、調査・検討を加えて書き直すことにしました。この過程には、筆者の専門分野である歴史地震研究において重要なポイントが含まれているので、ここで余話としてご紹介します。

この項では,京都市伏見区淀本町の稲葉神社(写真)と、この神社の史料である『永代日記』の寛文近江・若狭地震(1662年)に関する記述を紹介しています。『永代日記』は京都市歴史資料館の写真帳で閲覧することができます。同館の写真帳は、史料の調査時に撮影された写真を紙に焼きつけ(転写)したものです。

最初の原稿では、この『永代日記』を現在の稲葉神社で書かれたものと想定して書いていました。寛文二年五月一日(グレゴリオ歴の1662年6月16日)に発生した寛文近江・若狭地震による京都市中の被害状況が、五月五日(同6月20日)になって淀まで伝わってきたと解釈したわけです。しかし、次に述べる背景から、この解釈は間違いと分かり、原稿を改訂したのです。

稲葉神社は、淀城跡内にあり、淀藩の旧藩主稲葉氏の祖先をまつっています。神社の建立は1885年で、それ以前はこの神社は存在しなかったことになります。当然、寛文近江・若狭地震のときにもこの神社はありませんでした。

では『永代日記』の1662年近江・若狭地震の記録はどこで記録されたものでしょうか?  この日記が記された期間、稲葉家は相模国小田原藩主でした。この日記は、小田原藩主の日記ということになります。書籍版の最終的な原稿にも書いたとおり、地震発生当時は当主の稲葉正則は幕府の老中であり、前後の日記の書きぶりからも江戸に居たと考えられます。この地震の記録は、江戸で書かれたものと解釈することができます。地震の発生が「(寛文二年)五月朔日」、飛脚によって江戸に情報がもたらされたのが「五月五日」ということになります。

ちなみに、この記録は五月一日の有感記録が『新収日本地震史料第2巻』[東京大学地震研究所 (1982)] に、五月五日の飛脚の部分が『日本の歴史地震史料拾遺』[宇佐美 (1998)]に収録され、前者の有感記事は江戸のものとされています。

史料は必ずしもそれが書かれた場所にそのまま残るとは限りません。所有者の転居や異動、史料自体の贈答、貸借や売買、廃棄や収集などによる所有者の変更、などさまざまな理由で移動します。一方、歴史地震の研究では、どの地点での記録かということがたいへん重要になります。史料の分析にあたっては、歴史学や地理学をはじめとする人文学の研究手法をまなび、それらの分野の研究者からの助言を得たり、協働したりすることで、より正確で精密な結果を得るようにしたいものです。

『永代日記』の地震記述を淀で記録されたものとした誤解も、京都市歴史資料館による稲葉神社文書の目録・解題をよく読んでいれば避けられたかもしれず、反省することしきりです。刊行前に気づいてよかったと思っています。

最後に、『永代日記』のこの地震に関する部分を引用しておきます。

「(寛文二年)五月朔日大陰午刻少地震夜ニ入小雨降
一御用番今朝ゟ阿部豊後守様え渡し被成
一辰刻御登 城午刻御退出
(以下略)」

<五月一日(今月は大の月)曇り、午刻(12時前後)少し地震、夜になって小雨が降る
・(老中の)月番を今朝から阿部豊後守に交代された
・辰刻に(江戸城)へ登城され、午刻に退出された
(以下略)>

 

「(同年)五月五日 雨天終日不止
一辰刻御登 城午后刻御退出
(中略)
一従京都飛脚到来去ル朔日午上刻大地震禁裏仙洞女院御所御庭え出御、御所中替儀無御座候、并二条御城別義無之、但塀壁築地少々破損、瓦落申由、大阪右同前堺尼崎ハ少脇ゟ強震候由申来依之申后刻重而御登 城追付御退出
(以下略)」

<五月五日雨天終日止まなかった
・辰刻(8時前後)登城され、
(中略)
・京都から飛脚が到着した。去る一日午上刻(12時前ごろ)大地震があり、禁裏御所や仙洞御所、女院御所ではお庭に避難された。御所内では変わったことはなかった。二条城も支障なかった。ただし、塀や壁、築地は少々破損があり、瓦は落ちたとのことである。大阪も同様であり、堺や尼崎はその周辺よりは強く揺れたと言ってきた。この知らせがあったため申后刻(16時過ぎ)に再度登城され、まもなく退出された。
(以下略)>

 

(加納)

『京都の災害をめぐる』特設ページ