中世村落の文書と宮座 序章 本書の目的と構成 はじめに 本書は、中世村落における文書と宮座について論じるものである。本書は、第一部 村落文書・第二部 村落宮座・第三部 村落神話と宮座儀礼の三部から構成されている。その各部について、前提とする研究状況や内容構成などについて説明する。 第一節 村落文書 第一部は、村落文書について考察する。村落文書とは、中世村落が保有している文書群のことである。薗部『日本中世村落文書の研究』(以下、本章では前著と呼ぶ)における研究成果を継承し、さらに考察を加えたのが第一部である。 前著刊行以降まだ日が浅いが、一点、特筆すべき動きがあった。歴史科学協議会の機関誌である『歴史評論』八四五号(二〇二〇年)に「中世村落史研究のフロンティア」という特集が組まれて、前著などがとりあげられた。 この特集により、学界における村落文書に対する認識が深まり、かつ拡がったものと思われる。 第一章ではまず、前著では見落としていた、紀伊国林家文書の村落定書について論じた。さらに村落定書による生活規制の一環として、従来注目されてこなかった牛馬放牧と落ち穂拾いと村落との関係について、認識を深めた。 第二章では、村落社会に流通する売券の様式の変化について論じた。従来、中世から近世にかけて売券が書札体化すると指摘されてきた。しかし中世の地下文書・村落文書と近世の地方文書・村方文書との関連がほとんど考察されてこなかったので、売券様式の変容については全く解明されてこなかった。そこで私は丹波国・近江国・和泉国の事例を調査し、いずれも一七世紀に売券の書札体化が進行することを突き止め、その歴史的背景について考察した。今後も、中世の地下文書・村落文書と近世の地方文書・村方文書とを関連付けた研究が必要である。 第三章では、中世村人の署判である略押・筆印・木印について考察した。そして略押・筆印・木印のいずれにおいても、「署判する場」が決定的に重要であると指摘した。 さらに村落文書のありかたは、宮座の類型、さらには村落の類型とも密接な関連をもつ。この点については、終章で論じた。 第二節 村落宮座 第二部では、村落宮座について考察する。村落宮座とは、文字通り、村落で営まれる祭祀組織であり、また村落運営組織でもある。私はこれまで畿内近国の臈次成功制宮座と名主座リング地域の名主座という二つの宮座類型の存在を指摘してきた。本書はその議論の上にたって、さらに考察を深めたものである。 第四章では、中世の村落宮座が近世にどう変容していくのかを、村人の家の成立と関連させながら論じた。なお同章の初出論文を掲載した『家と共同性』(日本経済評論社、二〇一六年)には、薗部論文の結論を踏まえて、広い視野から家の成立と展開を論じた加藤彰彦「家社会の成立・展開・比較」が掲載されているので、あわせてお読みいただきたい。 第五章では、薗部『中世村落と名主座の研究』(以下、本章では前著と呼ぶ)刊行以降に発見した名主座を取りあげた。丹波国葛野荘の名主座、肥後国海東郷の名主座(ジンガ)、及び南海道(土佐国・紀伊国)の名主座を紹介し、それぞれに考察を加えた。 第六章では、小領主(地侍・土豪)と宮座との関連を、畿内(大和国・山城国)・南九州(薩摩国)・東国(下野国・相模国・信濃国)の事例で考察した。南九州や東国に村落宮座が存在しないことはよく知られていたが、なぜ存在しないのかについては永らく謎であった。今回の作業によって、一定程度、この謎を解明できたのではないかと思う。 終章では、本書の総括として、村落文書のなかの村落内部文書と村落類型・宮座類型との関連について議論したい。ここでは、その前提となる認識を示しておく。 一 東日本・西日本論 網野善彦氏に、東の「イエ的社会」・西の「ムラ的社会」という東西二分論がある。この議論は、西の「ムラ的社会」は惣村論に立脚しているものの、東の「イエ的社会」はほとんど実証的な根拠に基づいていない。 前述したように私は、畿内近国の臈次成功制宮座が分布している地域の周辺に同心円状・リング状に名主座が分布している「名主座リング」という村落内身分論を提唱している。村落内身分や名主座という宮座については後述するが、名主座という宮座の一類型は、畿内近国を取り巻く形で、日向国以南の南九州、越後国・信濃国・駿河国以東の東日本・北日本を除く地域にリング状に分布している。そのように名主座が分布するようになった歴史的経緯などは今後の課題だが、リング状の分布実態そのものについては実証的に確認済みである。したがって、少なくとも村落史(村落宮座のありかた)において、網野氏の東日本・西日本論は成り立たない。 ところが網野氏のこの議論は、歴史学から離れたところで、いまだに強い影響力をもっている。たとえば、民俗学の福田アジオ氏は、東日本の「番」・西日本の「衆」という形で東西に二分する村落類型論を唱えている。これは、あきらかに網野氏の東日本・西日本論を意識した議論である。福田氏の東日本の番・西日本の衆は、近世の村落(祭祀)に立脚した類型論である。ところが福田氏は当時既に知られていた中国地方の名主座を無視しており、福田氏の説も実証的に成り立たない。 ただし、ここで注意したいのは福田氏の議論の成否ではない。東西二元論など網野氏の議論の一部は、非実証的であり、「直感的で思いつきに基づく」(村井章介氏の評語)という面をもっている。問題なのは、そのような網野氏の所説が、歴史学の手から離れて、民俗学という隣接分野で一人歩きしている点なのである。網野説を改めて実証的に再検討することもなく、網野氏という偉大な研究者の学説であることで、無限定にオーソライズされつつ利用されている。これは、隣接分野のみならず、歴史学においても、新たな議論の進展を阻んでいる一因であると思う。 二 宮座の概念規定と惣村論 網野氏とは直接関わらないが、似たような課題としてもう一点、宮座の概念規定の問題をみてみたい。福田アジオ氏は、宮座を定員制・頭屋制・一座制による祭祀組織と概念規定している。このなかで「一座制」とは、宮座の構成員全員が一堂に集まる組織という規定だが、ここに大きな落とし穴がある。 一座するというのは、宮座祭祀やその後の直会などからイメージされたものと思われる。この宮座構成員が一座するというイメージは、宮座は座衆の「自主的な結合」によるものであるという観念と水面下で結びついている。 藤井昭氏は、「宮座は頭人の頭役を前提に成立しているが、頭役制をもつものがすべて宮座を形成しているわけではない」としながら、「頭人たちが、一つの座につくことになれば、それを宮座とよぶことができよう」と述べてい(る((。すなわち頭人(=正しくは宮座の構成員)による頭番制があるだけでは宮座とはいえない、頭人が一堂に揃って座に居並ぶという集団性がなければ、宮座とはいえないと、藤井氏は主張する。 宮座が座衆の自主的な結合・統制の集団であると規定している点は、高牧實氏も同じである。そのために同氏は、名主座を宮座とは認めない。名主座の構成員である名主頭役身分の者は領主からの補任を前提としており、それが 自主性という宮座の概念規定に抵触するからなのであろう(ただし皮肉なことに宮座祭祀において名主座の構成員は一座している)。 宮座=自主的な集団という概念規定は、実は惣村のイメージと大きく関連している。かつて惣村は自治を過大に評価することにより、領主不在地域の民衆による楽天地であるかのようにイメージされたことがあった。それは、惣村が自立的な集団であることを過大に評価したためであった。実はこの惣村の自立性を過大に評価したイメージが、自主性を不可欠なものとする宮座の概念規定と強く関わっているのである。このことは、宮座研究が当初から惣村研究と密接に関連して行われてきたという、研究史上の経緯によるものなのである。 名主座は名主頭役身分の者たちの集団であり、名主頭役身分は荘園領主らが補任した名主身分に淵源をもつ。したがって前述したように、自主性を重視する高牧氏らの宮座概念では名主座を宮座とは認めない。 一方、同様の概念規定に立つ藤井氏は名主座を宮座と認めている。それは、藤井氏が名主座における頭文を自主性の重要な要件とみなしているためなのである。しかし、社家などが制定している形式をとる頭文を自主性の証とみることは困難である。 私は、宮座を村落内身分集団と捉える。村落内身分とは、村落集団によりおのおの独自に認定・保証され、一義的にはその村落内で通用し、村落財政により支えられた身分体系である。また名主頭役身分とは、中世後期に成立した、名をもち宮座頭役を勤めることをステータス・シンボルとする村落内身分なのである。村落内身分集団として宮座をみれば、畿内近国の臈次成功制宮座(いわゆる惣村型の宮座)のみならず、名主座も宮座として概念規定できるのである。なお、史料上でも名主座を「宮座」と呼んでいる。史料用語と研究用語とは異なるものではあるが、史料上、名主座を宮座と呼んでいること自体、やはり無視できるものではなかろう。 さて、以上のような惣村のイメージに対して、実証的に批判を加えたのが、三浦圭一氏である。三浦氏は、惣村内部の経済構造と身分編成の観点から惣村の内部矛盾や限界に着目し、惣村がその指導者層(乙名)による小百姓支配の場であったことを明らかにした。 一方、このような惣村研究の進展に対して、宮座研究は相変わらず自主性という側面ばかりに拘泥して、研究を進展させることができなかった。ここに宮座研究が閉塞していった根本的な問題点の一つがあったといえよう。 このように惣村が内部対立・内部矛盾をかかえていることは、三浦氏の研究以降、既に自明のものとなった。しかし残念ながら、この視点が今日の村落史研究においても十分に深められているとはいえない。近年の中世村落史研究を賑わせているのは、藤木久志氏の「自力の村」論である。この「自力の村」論は、村落集団を一枚岩であるかのように扱っている。 これに対して、西村幸信氏や坂田聡氏らの批判がある。ここでは、「自力の村」論には三浦氏が指摘した村落の内部矛盾に関する論点が欠落しているという西村・坂田両氏の指摘が的を射ているとだけ述べておこう。 なお、中近世移行期村落の研究展望を示した渡辺尚志氏は「戦国期には、惣村が全国的に成立した」と述べている。しかし名主座リングの地域では、次第に個別村落が力を得ていくものの、名主座の権威は近世でも根強い。この個別村落の政治主体としての力量はまだ十分とは言い切れない。またその個別村落も、畿内近国の惣村と同様の内部構造とは必ずしもいえない。そのような存在を一律に惣村と位置づけるのは、村落史研究上の認識としては乱暴すぎる。 二〇一一年の歴史学研究会大会報告で長谷川裕子氏は、村請が戦国期には全国的に広がると述べている。大会当日の討論の場でも述べたが、これもまた前述した同じ理由から、成り立たない議論である。このように、中世後期村落を惣村でしか認識しない偏った誤りは、蔵持重裕氏の論考にみられるように、現在でも根強い。 三 臈次階梯制の出現と地域的な展開 さらに、中世の村落宮座と村人のライフサイクルとの関連について述べてみたい。 表0-1は、宮座と通過儀礼に関してまとめたものである。この表では、畿内近国の臈次成功制宮座分布地域とそれを取り巻く名主座分布地域(名主座リング)とに地域区分して、宮座と通過儀礼の関係を整理してある。中世前期では、いずれの地域も惣荘・惣郷単位の臈次成功制宮座である。臈次成功制宮座とは、頭役と宮座に対する成功(費用負担)とによって、宮座成員が臈次階梯を上がっていくタイプの宮座のことである。この時期における惣荘(惣郷)の宮座構成員は住人と呼ばれ、住人の臈次が上がっていくと古老(古老住人)と呼ばれるようになる。すなわち中世前期の臈次成功制宮座は、古老住人と一般住人の区分しかない原初的な臈次階梯制だったのである。宮座内部の通過儀礼については史料的には不明だが、古老になる際に宮座に対して何らかの成功をともなう通過儀礼が行われていたのでないかと思われる。中世後期、畿内近国では一三世紀中頃になると惣荘(惣郷)から惣村という個別村落が成立しはじめる。この惣村の運営組織は、村落単位の臈次成功制宮座なのである。惣村宮座は村人で構成され、村人の臈次が上がると乙名(村落指導者)になる仕組みであった。 さらに中世後期の惣村宮座は、宮座の儀礼のなかに、名付け・烏帽子成・乙名成・官途成・入道成などの通過儀礼を取り込んでいった。名付けは文字通り、村人の新生児に対する名付けであり、これにより宮座の頭役帳に記載されて将来の頭役勤仕に備えた。また名付けの折に童頭という頭役を勤める宮座もあった。烏帽子成は村人の成年式であり、この儀礼を経て宮座乙名の前で烏帽子を被り実名を名乗ることが許された。乙名成は、村の乙名になる儀礼である。官途成は官途名を名乗れるようになる儀礼である。そして入道成は六〇歳を目途として出家して、宮座から引退する儀礼である。 中世後期の惣村では、村人の多様な通過儀礼が宮座の儀礼として行われるようになった。そしてその通過儀礼を受ける際に、村人は宮座に対して直物という費用を醵出した。この直物は宮座でプールされ、寺社の修造や村の訴訟など臨時の大支出に備えられたのである。惣村としては、この直物収入を目的として、村人の複雑な通過儀礼を宮座に取り込んだというべきであろう。中世前期から後期へ、畿内近国の惣村は、通過儀礼を重層化していく方向で進展していったのである。 前述したように、この畿内近国を取り巻く形で名主座リングすなわち名主座の分布地域は広がっている。この地域の惣荘(惣郷)宮座は、一四世紀初頭に名主座に変わった。古老・住人身分の者たちの宮座から、名主頭役身分の者たちの宮座へ変わったのである。 これは何を意味するのか。まず中世前期宮座にあった古老住人と一般住人という原初的な臈次階梯制が名主座では消滅した。名主座の構成員の間には、臈次階梯というような上下関係は存在しない。したがって、畿内近国のようにその他の通過儀礼を取り込んでいくことも、名主座ではなかった。 しかしながら、名主座においても頭役以外の直物に相当する財政収入が必要であったことはいうまでもない。そのために名主座では、毎年、名の規模に応じた支出を宮座の構成員である名主頭役身分の者たちに課していた。それを私は「名主頭役身分の応分負担」と呼んでいる。この応分負担が可能であったために、名主座では通過儀礼を宮座に取り込まなかったのだともいえよう。 この名主座リングにおいても、早いところでは一三世紀末には個別村落が出現してくる。しかしこの個別村落は中世末期または近世にならないと、地域の主導権を握ることはできなかった。ただ注意したいのは、名主座リング中の個別村落のなかには官途成を行っているものがある点である。名主座が惣荘(惣郷)宮座として地域の主導権を維持している一方で、その下部に生まれてきた個別村落には通過儀礼が芽生え、それが個別村落の宮座に取り込まれていたのである。 なお、それぞれの地域における近世への展望をみておきたい。畿内近国地域では村ごと、またはそれより小さな単位の組ごとに頭役を廻す村組頭役宮座へと変質していく。また村組頭役宮座を基盤としつつ、その頭役を勤仕した者を年寄衆として宮座全体の指導者とするような宮座もみられる。すなわち臈次階梯制と村組頭役宮座がセットになった形である。 名主座リングの地域では、近世になっても名主座が維持される事例が多い。しかし、名の形骸化に伴い、名頭役を個別村落や組が勤仕する形の村組頭役宮座へ変質していく。また名が苗となって、同族宮座や同族連合宮座になっていくものもある。 名主座や名を引き継ぐ形の村組頭役宮座の下にある個別村落では官途成が行われ、また若者組が結成される事例がしばしばみられる。名主座が形骸化していく一方、このような個別村落宮座における通過儀礼や若者組の存在が顕在化していく。以上のように、臈次成功制宮座を基軸とする村落(惣村)は、あくまでも畿内近国における村落類型にすぎない。 その周囲には分厚い名主座リングがあり、その地域には名主座が広くみられる。名主座を基軸とする村落を、本書では名主座村落と呼んでおきたい。通過儀礼との関連から前述したように、名主座リング地域は近世になっても名主座が強固に維持される事例が圧倒的に多い。この点をしっかりと踏まえておきたい。 以上のような認識を前提として、第二部及び終章を論じていく。 第三節 村落神話と宮座儀礼 本書第三部では、村落神話と宮座儀礼について論じる。村落神話は中世村落の草創神話であり、また開発神話でもある。この村落神話については、薗部『村落内身分と村落神話』以来、取りあげてきた。したがって、その概要については、同書第五章「村落神話」を参照されたい。この村落神話などの信仰理念を具現化したものが、宮座儀礼である。宮座儀礼については、私は本書で初めてまとまった形で論じる。そこで、信仰儀礼をいかに扱うべきかという基本姿勢を、ここに示しておく。その基本姿勢として、ここでは、信仰及び儀礼がどのように村落(宮座)へ伝播し定着していくのかという問題を考えてみたい。 一 信仰・儀礼の伝播と荘園公領制 村落における如法経信仰は近江国に濃密に分布しているが、その背後には比叡山延暦寺の存在がある。そしていうまでもなく近江国には、延暦寺の荘園が濃密に分布している。 この点からまず考えられるのは、荘園公領制的なルートに乗って、延暦寺から近江国一円に如法経信仰が広まった可能性である。井原今朝男氏は平安期における五節供儀礼の広がりに関して、同じように荘園公領制的なルートによる在地への伝播を論じている。また私も中世村落における吉書儀礼を同ルートの儀礼伝播によるものと考察したことがある。このように、村落への信仰・儀礼の伝播に荘園公領制的な伝播ルートがあることを確認しておきたい。 二 信仰・儀礼の伝播と一宮・地域中核寺社 (一)歩射儀礼 続いて歩射儀礼の伝播についてみてみる(本書第八章)。歩射儀礼とは、主に正月に村落宮座などで歩射(徒歩弓)を射ることにより、悪魔払いをする祭祀儀礼である。村落宮座でのもっとも古い歩射儀礼は、和泉国大鳥郡若松荘中村(現大阪府堺市)桜井神社の結鎮であろう。一三五一(正平六)年から記載されはじめる同社の中村結鎮御頭次第には正月三日に行われたと思われる結鎮頭役が記録されている。村落における結鎮儀礼の様相が具体的に分かるのは、近江国蒲生郡得珍保今堀郷(現滋賀県東近江市)の事例である。歩射儀礼である結鎮は、先行研究では、鎮花祭が起源とされている。そして「耀天記」社頭正月行次第によると、一三世紀段階で、正月一七日の延暦寺鎮守日吉大社馬場で「大結鎮」が行われている。このことから、近江国今堀郷の結鎮は延暦寺鎮守日吉社から伝播したもので、それは荘園公領制的なルートによるものと考えることができよう。 ただし如法経信仰や今堀郷結鎮の事例は、いずれも近江国内の事例である。他地域への歩射儀礼の伝播も五節供と同様に荘園公領制的なルートによる伝播なのだろうか。その点で注意したいのが、播磨国一宮伊和神社の歩射儀礼などである。具体的には本論で詳述するが、播磨国一宮の歩射儀礼に染河内村の名主百姓等が参加していた点が重要である。本論では、一宮などの儀礼が歩射儀礼伝播の大きな契機になっていた可能性を考察する。 ところで、畿内近国では歩射儀礼は結鎮と呼ばれていたが、名主座リングの地域では百手と呼ばれることが多い。何故に歩射儀礼を百手というのかは不明であるが、その背後に百矢という信仰儀礼があったのではないかと推測している。 このような歩射儀礼の地域性・歴史性についても考えていかねばならないといえよう。 (二)唐菓子系神饌ブト・マガリ 唐菓子とは、古代に中国から伝えられたとされる穀粉製の菓子である。米、麦などの粉に甘葛煎や塩などを加えて練って餅にして、さらにそれを油で揚げてつくった。八種唐菓子というが、それ以外にブト・マガリという唐菓子があった。 このブト・マガリは、もともと貴族の日常食であった。類聚雑要抄巻一・一一三六(保延二)年内大臣殿廂大饗差図〈東三条殿〉などによると、ブト・マガリが餅や柑子などとともに食されていたことがわかる。しかし、鎌倉時代末期には、日常食としてのブト・マガリは廃れていたという。 一一二七(大治二)年、朝廷の御斎会の供物にブト・マガリがみえる。それが中央の大社、そして一宮・総社へと伝播し、村落宮座に至る。この詳細については、本書第九章で詳述する。 以上のような認識に基づき、本書第三部で村落宮座の儀礼とその伝播・成立について取り組んでいきたい。 ※注と表は省略