<章見出し>プロローグ ―境目とは何か― <節見出し>1 前近代の境界  読者の方は、「境界(きょう かい)」と聞いてどのようなものをイメージするだろうか。試しに『日本国語大辞典』(小学館)を引いてみると、最初に「土地のさかい。また、国のさかい。」と書かれている。ここから派生して「物事のさかい」を表す場合があるものの、我々は主として地理的な区切りを「境界」という言葉で表現している。しかし、前近代(江戸時代以前)と近代以降とでは、「境界」の概念そのものがだいぶ異なっていることをご存じだろうか。  現在、国境をはじめとして、都道府県・市町村の境、さらには隣家との境に至るまで、「境界」は基本的に面積をもたない一本の「線」によって認識・表現される。ところが、前近代においては、一定の空間的広がりがあり、その空間内部は帰属がはっきりしないという性質をもっていた。このような境界を日本中世史の研究者は、文献史料にみえる言葉で「境目(さかいめ)」と呼んでいる。  もちろん、隣家との境のようにごく身近なレベルであれば「線」によって区切られることも多いであろうが、区切られるものの対象が大きくなればなるほど、境界は線というにはほど遠い、あいまいな「境目」となっていく。その最たるものが国境であろう。  前近代の国境については、次節で詳しく説明するとして、ここでは本書で中心的に扱う戦国時代の境目についてみていこう。  戦国時代の史料には、「境目」という言葉がしばしば登場する。先に述べた境目の性質を踏まえると、大名「領土」の境界は線で表現されるようなものではなく、支配地域の周縁部には帰属があいまいな領域が広がっていたことになる。  だが、高校で使用されている日本史の教科書を確認してみると、戦国大名の勢力範囲を示す日本地図には、大名ごとにくっきりと線引きされ、色分けされた「領土」が示されている。こうした大名の群雄割拠図は、高校生にわかりやすく戦国大名を解説するための手段なのかもしれないが、あくまで現代人の感覚による表現であり、ややもすれば前近代においても境界は一本の線で引かれ、なおかつ多くの人がその存在・位置情報を共有していたという誤解を招きかねない。  戦国大名の「領土」については、中世史研究者の鈴木良一氏が一九六三年の論文で的確に表現されているので、まずは氏の言葉を掲げ、そのあと補足説明したい。 <引用 ここから>  戦国の争乱すなわち無原則の分裂混乱という誤解に関連して、戦国の争乱すなわち全面戦争の連続という誤解がある。大名たちは確定した一円的な領土をもち、押しつ押されつ取りつ取られつしているかに、なんとなく信じられているようである。しかし、戦国大名の領土は、大小を問わず、誇張していうと、個々の独立した国人・土豪領の集まりであり、それに対応して有力大名の間には多くの小大名が介在し、同盟し屈服し裏切っているのが実情であった。近世大名の領国に比べるなら勢力範囲ともいうべきなのが戦国大名の領国であった。 <引用 ここまで> [「戦国の争乱」『岩波講座 日本歴史』8、岩波書店、一九六三年]  鈴木氏の言葉をもう少し砕けた表現で言い換えるならば、戦国大名の「領土」は「確定した一円的な領土」ではなく、「国人(こく じん)」と呼ばれる地域に根ざした拠点をもち、武力を備えた者の「領土」や、さらに小規模な郷村(ごう そん)レベルで勢力を保持する「地侍(じ ざむらい)」「土豪(ど ごう)」と呼ばれるような有力百姓らが保持する土地の集合体であった。しかも、上杉氏や武田氏など「有力大名」のはざまには多くの「小大名」的な領主たちが介在しており同盟・離反が繰り返されていたという。  つまり、大名は力づくで「国」をひとつにまとめあげていたわけではなく、国人以下の中小規模の所領をもつ領主層による支持を得なければならず、彼らに担ぎ上げられることによって、はじめて成り立つ存在だったと鈴木氏は指摘しているのだ。  そして、「小大名」的な領主たちの同盟・屈服・裏切りといった離合集散が繰り返されている地域とは、まさしく「有力大名」の「領土」のはざまである境目のことであろう。  鈴木氏は、最後の部分で近世大名と比較して、戦国大名の「領国(りょう ごく)」は「勢力範囲」ともいうべきものと結論付けている。この点についてもう少し説明しよう。  先に、戦国大名の「領土」は「確定した一円的な領土」ではないと述べたが、「一円的な領土」とはどのようなものであろうか。簡単にまとめるとおおよそ次のようになる。中世の荘園制では、本所(ほん じょ)・領家(りょう け)・荘官(しょう かん)などの諸階層がひとつの土地のなかで重層的に権利(耕作権のほか、年貢徴収や土地の支配・処分権など)・利益を分有していた。それを一人の領主が掌握し、他人の権益を排除した状態が「一円知行(いち えん ち ぎょう)」である。つまり、大名が支配領域内の権益を単独でもつことを意味する。  さらに、境目の視点からもうひとつ、別の意味をつけ加えることもできるだろう。たとえば現代において、東京都内であっても埼玉県境に近いところでは埼玉県知事の影響力が及んでおり、その影響は無視できない、などといったことは絶対にありえない。近代以降の行政区画では、定められた区域の中心部であろうが端のほうであろうが等質に権限が及び、隣接する行政の影響力が及ぶことはない。これも「一円的」な支配形態のひとつといえよう。  以上を踏まえると、近世大名、つまり江戸時代の藩主やそのほか幕府から知行地を与えられた者の場合、基本的には単独で権益をもち、なおかつ等質に権限が及ぶものだったと捉えることができる。鈴木氏は「単独で権益をもつ」ことだけを想定していたのかもしれないが、筆者は「等質に権限が及ぶ」点も重視したい。  反対に、戦国大名の支配領域では、その権限・影響力が等質に行き渡らないのが普通であり、大名の拠点から距離的に近いか遠いかだけではなく、山岳地帯や川の流路など自然地形の影響を受ける場合や、旧来からの支配・被支配といった人的関係によるものなど、様々な要素が絡み合って「勢力範囲」を形成していたことになる。  以上、鈴木氏の研究によりながら戦国時代の境目について説明してきたが、本書は境目からの視点で戦国大名、ひいては戦国社会をみていこうとするものであるため、鈴木氏の議論を踏まえて大名の支配領域については、「勢力圏」「勢力範囲」という表現を基本的に使用している。  境目は、現代人がイメージする境界とはまったく異なっていることを読者の方にも幾分かは理解していただけたと思うが、研究者でさえもこの前提を忘れがちで、あたかも一本の線によって区切られた領域のなかで、一円的支配が確立されていたかのように議論を展開している場合も見受けられる。  本書では、この忘れられがちな境目にあえて注目し、一定の空間的広がりをもつ境目内部の具体的な様相をみていくことで、一般的にはあまり知られていない戦国社会における別の一面を描き出していきたい。 <節見出し>2 中世日本の境界―外浜と鬼界島  前近代の境界認識は、日本国内だけにとどまらず外部との境界、つまり朝廷や幕府の支配が及ぶ限界域についても同様であった。本書の舞台となる中世―といっても戦国の世からだいぶ時代は遡るが―鎌倉幕府の支配が及ぶ東西の限界域として、度々登場するのが外浜(そとが はま)と鬼界島(き かいが しま)である。現代人の方位感覚からすれば、それぞれ北限・南限と言いたいところだが、中世人の感覚では、天皇がいる京の都を中心として列島は東西に延びていたようである。  外浜といえば、現在の青森県津軽半島の北東部に外ヶ浜町という行政町がある。ただし、この町は二〇〇五年に蟹田(かに た)町・平舘(たいら だて)村・三厩(みん まや)村が合併して生まれたもので、古代以来の外浜はもっと広い範囲を指していた。  『日本国語大辞典』によれば「秋田県の能代平野から青森県の津軽半島を経て下北半島にいたる一帯の海岸の呼称。」と説明されている。しかし、これではあまりに広範囲すぎる。  中世において、京の都から船舶で津軽方面へ向かう場合、日本海を利用するのが一般的であり、京に近い津軽半島西側は「内」浜、その先に位置する半島東側、つまり陸奥湾内は「外」浜となる。したがって、先の外浜の範囲をもう少し絞るとなれば、陸奥湾岸一帯を指す呼称というのが適当ではないか。もちろん、当時の人であってもどこからどこまでの呼称なのか、明確には答えられないだろう。  ところで、鎌倉時代に幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡(あ づま かがみ)』には、平泉(ひら いずみ)に拠点を置いていた奥州藤原氏の初代清衡(きよ ひら)が、白河関(しら かわの せき)(福島県白河市)から外浜へと至る「奥大道(おく だい どう)」に、道のりを示した標識として一町(ちょう)(約一〇九メートル)ごとに笠卒都婆(かさ そ とう ば)を立てたことが書かれている。  藤原氏はのちに、幕府の創設者源頼朝(みなもとの より とも)によって滅ぼされたわけだが、その幕府側の編纂者によって、藤原氏は奥羽地域に君臨する大勢力を誇っていたことが記され、同氏の権力が及ぶ限界域として(事実かどうかはさておき)外浜を象徴的に登場させているのは興味深い。  一方、鬼界島は現在の鹿児島県鹿児島郡にある硫黄(いおう)島(じま)の別名で、鹿児島港から南方約百キロメートルの洋上に浮かぶ小さな島であるが、古代以来、記録や物語にしばしば登場し、『平家物語』では俊寛(しゅん かん)の流刑地となっている。流刑地といえば、外浜の先にある蝦夷島(え ぞが しま)(現在の北海道)は鎌倉幕府が流刑地のひとつとして利用しており、両島は東西の境界域という共通点をもつ。  また、『平家物語』において鬼界島の住人は「人ではあるが人とはみえない様相で、鬼のようだ」と評されている。後述するが、こうした描写は京都といういわば「中央」に住んでいる作者によって創造されたひとつの辺境イメージである。  さて、外浜と鬼界島の両所が登場する史料として、曾我(そ が)兄弟の敵討(かたき う)ちで有名な『曾我物語』がある。同物語は鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて成立したとされ、敵討ちの話についてはどこまでが真実なのか不明であるものの、創作された当時の人びとの境界認識を読み取ることができる。その部分の概略をみてみよう。  源頼朝と側近安達盛長(あ だち もり なが)が伊豆走湯山(そう とう ざん)(伊豆山神社・静岡県熱海市)に参籠した際、盛長がみた夢のなかで、箱根へ行った頼朝が左足に奥州外浜を踏み、右足に西国鬼界島を踏み、左右の袂(たもと)に日月を宿し、小松三本を髪かざりとしつつ南へ向かって歩いていた、という。  盛長の夢について、平景義(たいらの かげ よし)という者が夢判断をしたところ、東は平泉の藤原秀衡(ひで ひら)の館まで頼朝が支配するであろうこと、西は平家が都落ちして四国・西国の者たちを味方にしようとも、最後には平家一族を滅ぼし、余すところなく頼朝が支配するであろうご示現だとした。さらに、左右の袂に日月を宿すことの意味は、天皇・上皇のご後見役となって、日本の大将軍となることのご示現、小松三本を頭に挿したことは、子孫三代までは天下に威勢を広げるご示現ということだった。  ざっとこのような話なのだが、もちろん夢の内容は頼朝の生涯に則して創作されたものである。しかし、鎌倉時代後期から室町時代初期頃の人びとのなかで、幕府の支配領域の境界を指し示す場所として、外浜と鬼界島の両所が共通認識としてあったからこそ、頼朝が踏む場所に選ばれたのだろう。  ただし、両所が幕府支配の限界地として固定されていたというわけではなく、ましてや境界が一本の線によって区画されていたわけでもないことは、これまで説明してきた通りである。  中世日本の境界について研究している村井章介氏は、「境界を語るテキストはほとんど中央の知識人の手になるが、その情報源はかれらの実体験ではなく、境界空間に生きる人々(これを「境界人」と呼ぼう)の諸活動(なかんずく交易)に発する諸情報である。そこで境界人の視座から境界空間を見直すならば、境界のゆらぎという現象は、境界人の活動範囲ののびちぢみで説明できるだろう。」として、「境界空間を根拠地とする勢力の活動が、活発化して異域奥ふかくまで達すれば、そこで獲得された情報が中央に還流して、境界を外におしひろげる。逆に活動の衰退は境界をちぢませるだろう。交易ルートがのびればより遠くのようすがわかってくる。その情報が中央に還流した結果、日本のはてが外へとずれることになり、それを表現することばもゆれ動く。」と述べている。  外浜やその先にある蝦夷島、そして鬼界島は、幕府がある鎌倉や朝廷がある京など、いわば「中央」の人びとからみれば、鬼の住む辺境の地であり流刑地なのだが、「境界人」からの視点でみれば、商業や貿易が盛んにおこなわれている生産活動の活発な場であった。  外浜とは津軽半島を挟んで反対側、つまり半島西側に位置する十三湊(と さ みなと)は、北方交易の拠点として栄え、蝦夷の人びとやその先にある大陸との交易を担っていた。一方、鬼界島は交易品となる硫黄の産出地であるとともに、琉球・中国、さらには東南アジアへとつながる交易ルートの中継地でもあった。村井氏は「境界人」の視点から、日本周辺地域における彼等の活動や社会を明らかにしている。  ひるがえって国内へ目を向けると、戦国大名の視点からみた一般的にイメージされる境目は、「国盗り合戦」の舞台として単に彼らの「領土」が線引きされる場に過ぎず、たとえ、そこにスポットを当てたとしても、戦場を逃げ惑う民衆の姿をステレオタイプに描写するだけの場合が多いだろう。  だからこそ、境目に本拠を置く領主や住人たちの視点から、彼等の活動や境目の社会、そして大名を描く必要があり、それによって戦国時代をより立体的にみることが可能になるのではないか。 <節見出し>3 戦国大名の分国意識と境目  話を戦国大名の境目に戻そう。先述した日本史の教科書に載る大名の勢力図をみて、お気づきの読者も多いと思うが、その境目は古代律令制下で定められた地方行政単位である「国」の境界と重なるところが多い。  「国」は「信州(しん しゅう)」(信濃国(しなののくに)=長野県)、「上州(じょう しゅう)」(上野国(こうずけのくに)=群馬県)といったように、とりわけ「郷土」を表現したい場合の名称として現在でもよく使用されている。こうした「国」の境界と大名間の境目には、どのような関連性があるのだろうか。本節ではこの問題について触れておきたい。  現在、大名の「領土」を示す言葉として、「領国」が一般的に使用されている。これは学術用語なのだが明確な定義は存在せず、各研究者が独自に定義づけ、あるいは定義づけもなく使用しているのが現状だ。  文献史料において、大名は自ら支配する領域のことを「分国(ぶん こく)」と称している場合が多い。「分国」の意味については『国史大辞典』(吉川弘文館)のなかで、三鬼清一郎氏が次のように説明している。 <引用ここから>  律令制下の地方行政単位である国が知行の客体となり、事実上の所領化したもの。(中略)南北朝から室町時代にかけては、守護が軍事支配権をもつ国を自己の領国とすることによって、分国化は進展していった。戦国大名においても、みずから支配する領域を分国と称する場合があるが、それは、将軍から統治を委ねられているということを強く意識するからである。 <引用ここまで> (傍線は引用者による)  つまり、大名が「分国」という言葉を使用した背景には、将軍から国の統治を委任されているという意識があった、ということになる。  大名たちはどのような意味合いで「分国」を使用していたのか、ここで確認しておこう。そもそも古代律令制の時代、国郡制(こく ぐん せい)(国郡里制(こく ぐん り せい))ともいわれる律令国家による地方行政区画の体系)が施行され、各地に国・郡が設置された。  平安時代中期以降、上皇(じょう こう)・女院(にょ いん)(天皇の母や皇后、後宮、皇女などのうち、朝廷から「院」「門院」の称号を与えられた女性)や東宮(とう ぐう)(皇太子)といった皇族の収入のため、一国または数国を指定して知行権が与えられた。そこへ自分の近臣を国司(こく し)として任命・派遣し、現地で中央に上納すべき租税を徴収させた。これが「分国」のはじまりである。  鎌倉時代、将軍が天皇より与えられた知行国を「関東御分国(かん とう ご ぶん こく)」と称した。知行国主である将軍は御家人を国司に任命し、「分国」から収益を得ていたのである。  一方で幕府は全国の軍事行政を統轄するため、国ごとに守護を置いた。守護は南北朝~室町時代を通じて権限を徐々に拡大し、任命された国を守護自身の所領にしていく。やがて彼らは守護大名となって、室町幕府の統制下から逸脱していった。  しかし、守護はあくまで将軍から任命されるものであり、各国の統治は将軍から委ねられた権限だった。このような背景のもと、守護が将軍から統治を委任された国という意味で、当時「分国」という言葉が使われたのである。  しかし、応仁の乱以降、室町幕府による全国統治の秩序や権威が低下するとともに、守護大名の一部、たとえば駿河今川氏や甲斐武田氏などは独自に領内を再編成し、戦国大名へと変化していく。そうしたなかでも彼らは自分の領内を示す言葉として「分国」を使用し続けた。  戦国大名自身は「分国」とその境界(国境)について、どのように認識していたのか、ここで少し具体例をみてみよう。上杉謙信(けん しん)や武田信玄(しん げん)の国境認識については、福原圭一氏の研究成果がある。氏は、謙信の場合、信濃国における武田氏との戦いのなかで埴科(はに しな)郡と小県(ちいさ がた)郡との郡境を「国境」として認識しており、「謙信の意識は、「国」には縛られていないが、「郡」を単位としていた」と結論づけている。  なぜ謙信がそのような意識をもっていたのかといえば、謙信以前の時代から越後守護・守護代が公権力として信濃北部を影響下に置いていたことが背景にあったという。  つまり、謙信が越後国の実質的な「国主」となった際、それ以前の越後守護が保持していた「分国」を意識していたわけで、「「郡」を単位としていた」こともあわせて考えると、やはり謙信は国郡制による境界を重視していたといえよう。  一方、武田信玄の場合について福原氏は「信玄が信濃一国の一円支配を志向していることは明らかで、信濃守護職に補任されることで、これを正当化したのだと考えられる。」として、信濃北部が謙信の「分国」となっている現状を踏まえ、信玄は謙信対策として自身の信濃守護職への補任(ぶ にん)をはかったとする。そして、「信玄の意識する「国境」は、国郡制による「国」の境界、つまり信濃と越後の「国境」そのものであった」と結論づけている。信玄においても、国郡制を踏まえたうえで信濃守護職への補任を目指していたことがわかる。  では、国郡制を踏まえた「分国」を意識していた大名は、「将軍から統治を委任された国」という認識をもっていたのであろうか。この疑問を解くために分国法をみてみよう。分国法とは戦国大名が制定した法のことで、高校の日本史教科書でも戦国大名の特質を表すもののひとつとして登場する。「分国法」という語句自体は、学術用語として近代に入ってからつくられたものなので、そこに大名たちの認識は含まれていない。  駿河今川氏の分国法のなかに、ひとつ注目すべき条項がある。今川義元(よし もと)の代につくられた「かな目録追加」第二十一条である。 <引用ここから>  守護不入(ふ にゅう)の土地の事について。(中略)「前々からの規則によって守護使(しゅ ご し)不入である」と主張するのは、将軍家が全国にわたってご命令を下され、各国の守護が(将軍によって)任命されていた時のことである。(その時代に)守護使不入とされているならばどうして、将軍のご命令に背くことができようか。できるはずもない。しかし現在は総じて、(今川が)自分の力量によって国の法度を浸透させ、国内を静謐にしているのだから、守護(今川)の干渉をまったく許さないということは、これまであろうはずがない。(後略) <引用ここまで>  「守護使不入」とは、特定の荘園や公領などにおいて、守護の派遣した者(守護使)が領内へ立ち入って税を徴収したり、犯罪人を逮捕したりするなどの職務行使を幕府が禁止したことを意味する。  義元は、将軍の命によって国を治めている守護公権ではなく、自分の力量で国を治めているのだから、国内の領主たちが「将軍の命による守護使不入の土地だ」と主張して、今川氏の介入を拒否しようとしても、それは通用しないと述べている。  この条項は、室町幕府から任命される守護とは質的に異なる性格の権力として、今川氏が自らを位置付けたものであり、戦国大名の自立性を示すものとして注目されてきた。しかし、裏を返せば「かな目録追加」でわざわざこのようなことを書き加える必要があるほど「守護使不入」を法的根拠として、今川氏の介入を拒む領主が多かったことが窺える。  大名がいくら「自分の実力で支配している」と言ったところで、素直に従う者ばかりだったわけではなく、大名の干渉を嫌ってあらゆる手立てを講じるしたたかさをもった領主も少なからずいたのである。  義元が「守護使不入の土地であるという主張は通用しない」と「かな目録追加」で宣言したところで、たちどころに義元の思惑通りに事が運ぶかといえば、それほど簡単にはいかなかったであろう。  結局、戦国大名は、強力な軍事力だけで領内の者たちを服従させることはできず―そもそも、その軍事力を構成しているのは領内の者たちであるのだが―自らの支配の正統性をどのようなかたちにせよ家臣や民衆にアピールし、納得させ、支持を得る必要があった。このような背景があったからこそ、大名は「分国」という言葉を利用したのだろう。つまり、「将軍から統治を委任された国」という認識が大名になかったとしても、統治者が使用する・すべき言葉として、人びとの意識のなかに浸透していたのではないか。  そのように考えれば、今川氏や武田氏のような守護大名に出自をもたない北条氏でさえ「分国」を使用していたことも納得できる。相模北条氏(小田原北条氏・後北条氏ともいう)初代伊勢宗瑞(い せ そう ずい)(北条早雲(そう うん)という名が一般に知られているが、北条を名乗ったのは二代目氏綱の時である)は、元々室町幕府の御家人で、駿河今川氏の内紛の際に下向し、伊豆国を攻略した後、相模国小田原を奪って本拠地とした経歴をもつ。また、北条氏の場合、「分国」の指し示している具体的な領域は、事例によって異なっているようだ。  もちろん、「分国」とはいっても国境に境界線が引かれていたわけではなく、実態としては極めて曖昧なものであったことはいうまでもない。 <節見出し>4 本書のねらい  本書は境目の視点から戦国社会をみていくことに重点を置いている。同様な視点からの研究は、一九八〇年代に入って登場した。七〇年代までの戦国期研究では、大名が如何に自国内の支配体制を築いていったのか、大名の発展過程を描くことに中心が据えられていた。つまり、戦国時代は戦国大名が主役の時代であることを前提として、彼らの先進性・独自性が追究され、積極的な評価が与えられてきたのである。  しかし、七〇年代末から八〇年代にかけて、それまでの大名への評価に対して批判的な研究が出てきた。ひとつは「戦国大名とはそもそも何者なのか」といった戦国大名の存在そのものへ疑問を投げかけた研究である。もうひとつは戦国時代を「村」の視点でみていこうという流れである。前者について、ここでは深く立ち入らないが、「村」からの視点による研究については本書との関連もあるため、もう少し説明しておきたい。  八〇年代、村落共同体に注目する研究が勝俣鎮夫・藤木久志両氏を皮切りに盛んになっていった。勝俣氏は、中世の領主と村との関係を、領主による領民保護義務と、それに対する地下(じ げ)(百姓など一般庶民)の忠節・奉公といった双務的関係として位置付けた。つまり、氏はこれまでの研究で前提とされてきた大名の「実力」による一方的な支配という考えを否定し、領民保護という義務を果たすことによって、はじめて地下の忠節・奉公が得られることを指摘したのである。  次に藤木氏は、戦国期村落の自立性を高く評価するなかで、「武装する村」の存在を見出し、村が紛争解決の主体となって様々な独自の作法を作り上げていたことを明らかにした。  中世畿内近国の場合、入会地(いり あい ち)(共同利用地)や田畑へ引く用水の共同管理、荘園領主や守護の収奪に対する減免要求、そして戦乱による略奪などに対する自衛などを背景として惣村(そう そん)が形成されていく。惣村では、村独自の法である「惣掟(そう おきて)」、警察権・裁判権を自ら行使する「自検断(じ けん だん)」、そして領主から荘園管理や年貢徴収を請け負う「地下請(じ げ うけ)」などが広がっていくことは現在の高校の日本史教科書にも書かれているが、こうした村の自立性を高く評価し、大名権力を相対化したのが藤木氏の「自力の村」論だった。これ以後、七〇年代までの大名・領主像は大きく転換していくこととなる。  同時期、境目に注目が集まり研究が進んでいった。これは単なる偶然ではない。大名権力側の視点で歴史を描くのではなく、村などの被支配者側の主体性・自立性を重視しようとする研究動向のなかで、境目はそれらがより明確に表れる場としてクローズアップされたのである。  ところが、境目に腰を据えてその内部の様相をじっくりと描き出す研究よりも、どちらかといえば被支配者側の自立性・主体性を論じるなかで、つまみ食い的に境目を利用する研究が多かった。そうしたなかで、具体的事例というパズルのピースは生まれたものの、それらがどのように組み合わさって、どのような全体像がみえてくるのか、あまり説明されることはなかった。  そこで、パズルのピースを組み合わせ、境目の全体像を読者の方にお見せしよう、というのが本書のねらいである。   <節見出し>5 本書の構成  本書に登場する境目の舞台は、上野国(群馬県)を中心とした上杉・武田・北条三氏の勢力圏が中心となる。上野国は「戦国大名の草刈り場」とよく言われるように、強力な大名が成長することなく、中小領主が割拠していた地域だった。視点を広くとれば、上野そのものが境目だったとも言えよう。  そのような地域で弱小領主が生き残っていくためには、情報をいち早く収集・分析し、知恵を働かせ、状況に応じた戦略を講じていく必要がある。先に挙げた大名「御三家」の境目であればなおさらである。結果、個性に富んだ領主たちの姿が史料から浮かび上がってくることとなった。こうした「境目領主」の生き様を観察することで、境目の特質がみえてくるだろう。民衆についてもまた同様である。  以上のような理由から上野国を中心としてみていくわけだが、だからと言ってひとつの地域の特殊事例として済まされるものではなく、本質的な部分においては全国各地の境目と共通性があり、普遍的な要素をもっていると筆者は考えている。さらに言えば境目というのは、大名間の場だけに存在するものではなく、中小領主の支配領域のはざまなど、様々なシチュエーションが想定できよう。史料の残存状況などといった制約はあるものの、全国的な視点で戦国社会を考える際、境目は有用な素材を提供してくれる。    さて、本書の構成について触れておこう。第Ⅰ部「境目の社会と民衆」は、戦国時代における社会の具体的様相を「境目に生きる人びと」の視点でみていこうというものである。第一章「境目とはどのような場か」では、様々な事例を参照しながら、境目の特質について考えてみたい。大名による情報統制や境目における人びとの交流に注目するほか、「半手(はん て)」と呼ばれる村落の政治的動きなどについてもみていくこととしたい。  続いて第二章「戦乱のなかを生き抜く」では、境目が戦場となった場合、人びとは生き延びるためにどのような行動をとっていたのか、そして、なぜ戦場となるような危険な地域に住む者たちがいたのか、といった疑問に迫っていく。  第Ⅱ部「戦国大名のはざまで生き抜いた領主たち」は、何人かの境目領主にスポットを当て、彼らがなぜ境目で勢力を保つことができたのか、あるいは保つことができなかったのか、その答えを探る。第一章「国境の管轄者」では、上・越国境において活動していた栗林次郎左衛門尉(くり ばやし じ ろう さ え もんの じょう)に注目し、彼と上杉氏との関係、国境の様相や境目に出陣する地侍たちの姿をみていく。  第二章「「根利通」をめぐる領主たちの攻防」では永禄年間(一五五八~七〇)を中心に、赤城山の東山麓を通る「根利通(ね り みち)」を舞台とした領主たちの攻防に迫る。  第三章「小川可遊斎の活躍」では小川可遊斎(か ゆう さい)という沼田地域の領主にスポットを当て、彼が上杉―北条―武田へと従属先を変えつつも上杉氏とのパイプを維持した様子について、続く第四章「境目の消滅」では、戦国末期に境目が消滅していくなかで、境目領主たちがどのような行動に出たのか、みていくこととしたい。  なお、読者の便宜をはかり、簡略な地域図(本書の舞台全体図、東上野地域図、沼田・上田荘地域図、千国道筋地域図)と年表を次に掲げた。適宜参照願いたい。