はじめに ■本書のねらい■ 巨大化する台風、激烈な集中豪雨、耐えがたい熱波。今や人間生活にまつわる諸活動が、温暖化というかたちでこの巨大な地球の気候に影響を与えるまでになった。さらに、人間が記録を残すよりはるかに長いスパンで発生しつづけてきた巨大な地震や噴火も、現代の世界を脅かしている。人間は、長い歴史を、こうしたさまざまな自然の脅威にさらされながら生きぬいて来た。それは必ずしも人間がそれらの脅威を圧伏し克服したのではなく、たいていの場合は頭を低くして災厄を何とかやり過ごすようなやり方が普通であったが、しかし、そこで受けたダメージからの回復には精力を傾け、また次に襲い来る災厄の影響を小さくすべく、知恵を絞った。  日本の歴史を考えてみよう。日本の歴史では、田を耕してきた農民が主役と思われがち である。しかし、周囲をすべて海に囲まれ、豊かな山に覆われているのが日本列島である。平地で稲作をしてきた「農民」ばかりが庶民の姿ではない。とりわけ山間地には今では想 像できないほどの活気があり、精力的に生きる人々が暮らしていた。今まであまり描かれることのなかったそれら山村に生きた人々の姿を、災害という自然の脅威の中を生きぬく姿を通して知って欲しいというのが、本書の意図するところである。 ■中央大学山村研究会■ 本書は中央大学山村研究会という小さな有志の会が編集したもので ある。当会は三〇年前の一九九一年に中央大学に関係する大学院生・学部生の有志で始め た研究会で、その名の通り当初から一貫して山村地域を対象とした歴史研究を続けている。名称に中央大学と冠してはいるが、それは単に呼びかけ人の出身と集まりの場が中央大学 にあったからというに過ぎず、初期から他大学の院生・学生なども加わっており、後には 他大学の教員や一般の社会人も会員となってきた。それは、当会が「古文書を中心とする 歴史史料を通して昔日の山村の姿を知りたい」というその一点を共通項として成り立って いるからであり、会員の専門分野、関心をもつ分野も、歴史学のみならず民俗学など隣接 する人文科学分野のほか、理系の自然地理学、林学、地震学など幅広い分野にわたってい る。本書は、そのような多様な専門分野の会員による文理の枠を超えた総合的な成果を表 すものとなっている。  当会には、創設当初から長く守っている二つの原則がある。一つは古文書などの史料を丹念に読解し、きちんと意味をとり理解する、ということであり、もう一つはフィールド調査をもとに地に足の付いた研究を行う、ということである。前者については、会の調査で撮影してきた古文書写真を毎週の例会でひたすら丹念に読み進めているし、後者については、活動初年度から山梨県に所在する早川町(山梨県南巨摩郡早川町)をフィールドとして調査・研究・発表を続けてきている。  当会の活動には、大きく ①例会、②現地調査、③現地講読会または報告会、④出張山ゼミ、という四種類がある。基本となるのが例会で、大学の授業期間中の毎週火曜日夜に二時間半から三時間程度の会合を開いている(現在ではオンライン開催)。例会では、写真版古文書の講読、会員による発表、古文書目録作成などの作業を行う。②も当会の基幹的な活動で、主に早川町を訪問し、各集落の旧家や地区が所有している古文書など歴史史料の調査や整理・撮影を行ってきた。併せて歴史に関する聞き取り調査や景観観察なども行っている。③は調査現地への成果還元で、二〇〇八年・二〇〇九年には報告会という形で会員が研究成果の発表を行っていたが、二〇一一年以後は地元住民の方にもより身近な歴史を感じていただけるようにと、それぞれの地区ごとの古文書を地元の方と一緒に読解していくスタイルで年一回の講読会を開いてきた。④は普段の例会に集まりづらい会員との交流や親睦を図る目的で二〇一四年から始めた企画である。年二回程度、都心を主な会場に古文書講読や研究会外部からのゲストスピーカーを招いての報告会などを行ってきた。この会合はオープン企画として開かれており、会員以外の参加も可能となっている(なお、新型コロナウィルス COVID-19の感染拡大以降は、②から④の一部の活動を縮小あるいは休止していた)。  当会の成果物としては、活動初年度から毎年の活動内容をまとめてきた『中央大学山村 研究会報告集』(一~三一号)と、二〇〇三年に刊行した『中央大学山村研究会古文書調査報告書Ⅰ 山村史料の調査と成果 ―山梨県南巨摩郡早川町薬袋・榑坪・千須和―』がある。当会ではこれまで特段の周年行事や記念刊行は行ってこなかったが、創設三〇年という節目にあたり、これまでの成果の一端を形にすることになり、本書を発刊することになったものである。 ■早川町というフィールド■ 次に、本書の主要な舞台となる早川町の紹介をしておきたい。早川町は山梨県の南西部、三千メートル峰が屹立する南アルプスの東隣に位置し、面積の九六%が山林という山中の町である(口絵地図参照)。町域は広大で、東西一五・五km、南北三八kmに及び、県内二位の三六九・九六㎢の面積を誇る。一方、人口は二〇二二年四月一日現在の推計人口で一〇一一人と、全国の町の中で最少レベルとなっている(以下、統計情報は山梨県統計調査課HP「やまなしの統計」による)。当会が初めて調査に訪れた一九九一年八月当時、町の人口はまだ二二〇〇人を超えていたから、ここ三〇年で半分以下になったことになる。山間地で高齢化も進行しており、六五歳以上の割合は四七・一%と県内一位である(二〇二〇年度)。町内の中心部を南アルプスに源を発する早川が貫流しており、途中で支流の雨畑(あめはた)川を合流して、日本三大急流として名高い富士川に注いでいる。町内には約三五の集落があり、早川や雨畑川沿いの低地から山の上の尾根筋に開けたものまで町内に広く分散している。最高地点の集落は茂倉(もぐら)地区で、標高は約九〇〇mに位置している。  早川町の南東に隣接する身延(みのぶ)町には、鎌倉時代に開祖日蓮が開創したことで知られる日蓮宗総本山の身延山久遠寺(くおんじ)があり、早川町内にも日蓮宗寺院が多い。また、久遠寺と並んで参拝の対象となっている日蓮宗の聖地七面山(しちめんざん)は、山頂部が早川町の地内に身延町の飛び地として存在しており、身延山と七面山の間にある谷の中腹には、両所を参拝する信徒が仮眠・休憩をとった講宿集落が存在している。赤沢(あかさわ)という集落で、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。  早川入(はやかわいり)と称された早川流域をはじめ、富士川の狭隘な谷間の東西に広がる山がちな一帯は河内(かわうち)領と呼ばれ、戦国時代には武田氏親族衆の穴山氏により支配されていた。武田氏滅亡後、穴山氏も滅びると、甲斐国は徳川家康の領有から一時豊臣秀吉支配下の大名により統治されたが、まもなく関ヶ原の合戦での勝利を経て徳川氏の氏配下に入った。幾人かの親藩・譜代大名の統治の後、早川入の地域は享保九年(一七二四)から幕府領(天領)となり、幕末まで代官支配が続いた。近世初期までは金山が稼行していたほか、林業も近世を通して行われ、焼畑などでの自給的な食料生産も続けられて、山村らしい特徴を多分に備えた地域として生きてきた。  本書は以上の関心・観点から、文理融合・学際的な視野に立ち、早川入を具体的なフィールドに、山村史の叙述を試みたものであり、災害といういわば非日常の危機を切り口に、山村の姿をさまざまな側面から検証したものである。本書の各論考を通して明らかになってきたのは、驚くほどに強靱で野太い山村の生活のありようや資源の豊かさである。過疎や少子高齢化で悲惨・貧困・不便という印象の強い山村であるが、少なくも高度成長期に人口が急減するまでは、大きな活力をもった地域であったことが明らかになってきた。そして災害に対する強靱さは今も山村の人々の生活の中に見え隠れしている。日本の山村が災害に直面して見せる強靱な姿を解き明かした成果として、また歴史学をはじめとする諸学問がひとつの町に密着して地域の成り立ちをたどった成果として、本書をお読みいただければ幸いである。 目次 カラー口絵 はじめに 序章 フィールドから探る山村の歴史像 ―災害の視点と本書の立ち位置(中央大学山村研究会) I 早川の自然条件と災害 第1章 早川の災害と地形(長谷川裕彦・佐々木明彦) 第2章 古文書に描かれた森林の様相から災害リスクを考える(小山泰弘) Ⅱ 災害と技術 第1章 水害への対応と治水技術(西川広平) 第2章 災害復旧にみる往還の御普請と利用(高野宏峰) Ⅲ 災害と社会 第1章 災害をめぐる山村と領主(白水智) ●コラム1 貯穀と早川入の村々(岩橋清美) 第2章 山村の災害と歴史語り(柴﨑啓太) 第3章 災害と作物被害(成畑誠) ●コラム2 近世山村の飢饉(山本智代) 第4章 山の地震誌(寺島宏貴) ●コラム3 山村と地震(加納靖之) Ⅳ 災害の幸いと祈り 第1章 災害の幸い(田中悠介) ●コラム4 現代の早川に暮らす人々の災害の乗り越え方(柴田彩子) 第2章 御普請世話人斎藤善左衛門の狂歌づきあい(鈴木努) 第3章 山村における病とまじない(赤澤春彦) 第4章 災害と民俗(松本美虹) ●コラム5 歴史学と民俗学のはざまで(西村敏也) Ⅴ 地域史料をたどって 第1章 山村研究会と早川調査(荒垣恒明) ●コラム6 中央大学山村研究会創立のころ(福田英一) 第2章 災害跡地を歩く(中央大学山村研究会) ●コラム7 獣害への対応(中西崇) 終章 災害から読み解く早川入の山村世界(早田旅人) 早川災害史年表 近世編(高野宏峰責任編集) 執筆者紹介 序章 フィールドから探る山村の歴史像 ―災害の視点と本書の立ち位置 中央大学山村研究会 はじめに  中央大学山村研究会では、一九九一年の活動開始以来、山梨県早川町をフィールドに、中世末期から現代に至るまでの古文書類を数多く調査・撮影・整理し、それを読解しながら、随時民俗的な情報も取り入れつつ、山村としての当地の歴史を研究してきた〔本書コラム6福田「中央大学山村研究会創立のころ」/コラム5西村「歴史学と民俗学のはざまで」〕。それら古文書の中でも、とくに江戸時代の早川に関する史料の中には、さまざまな種類の災害が記録されている。当会では、二〇一一年の東日本大震災を契機に、早川の史料に現れる災害を一覧表にして、それを 毎週の例会で年代の古い順から一点ずつ読み進める取り組みを始めた。この史料講読はときにリ ストにない関連史料をたどって読むような寄り道もしながら、ゆっくりと着実なペースで続いた。結局、江戸時代の年代未詳分まで含めた約一三〇点の史料を読み終わったのは、二〇二〇年度末 のことであった。丸一〇年を費やしたことになる。しかし、この過程を通して、さまざまな事実 がわかってきた。その成果をまとめたのが本書である。  そこで、まずは山村の歴史を災害という切り口から研究する意味について改めて述べ、さらに実際に早川で発生していた種々の災害について概観するとともに、それらが本書の中でどのように位置づけられ、明らかにされているかについて全体像を提示してみたい。 1 山村史研究と災害史研究  歴史学において、山村は林業史・鉱業史など主に産業史の個別分野におけるフィールドとして研究されてきた。「山村」それ自体を固有のフィールドとして意識した研究は、稲作農業を基本とした日本史像の克服を意識した一九八〇年代以降の研究に始まるといってよい。そこでは孤立貧困の山村像の克服が当初目指され、従来の村落論・百姓論が「平地の稲作農村の村落論・百姓論」であったことを暴露してきたといえる。近年では「山村史」を意識した研究も少なからずみられるようになったが、材木や炭の生産に注目したものが多く、そこから山の高い生産力や豊かさが評価されるようになってきた。ただ、材木や炭が山村における重要な産業の一つであることは間違いないが、それらへの注目が山村史をかえって林業史・炭業史の個別分野研究へと回帰させはしないかとの懸念もある。山村の歴史を「山村史」としてとらえるならば、林業や炭業だけでなく、やはり採集や狩猟などの様々な諸稼ぎ、山村民の心性や思想、文化、政治をも包括した山村の「生活文化体系」を意識した研究が必要であろう。ただ、山村ではそこで展開される生業の多様性に比べて残された史料が少なかったり偏ったりする特徴があり、研究には困難がともなう。近年の山村史研究で材木や炭の生産が注目されるのは、それらに関連した史料が比較的多く残されているからであろう。そうした史料的な制約を乗り越えるためには文理融合・学際的な研究と、山村を見つめるための切り口が必要となる。  本書での山村を見つめるための切り口は「災害」である。歴史学における災害研究は、特に一九九五年一月の阪神淡路大震災以降、日本列島における地震や風水害など大規模な自然災害の頻発化と相俟って防災への意識のみならず、歴史資料のレスキュー活動や災害の記録継承などへの関心の高まりとともに、盛んになってきた。本書が災害に着目するのもこうした問題意識や関心の高まり、研究成果を承けてのことである。加えて、「災害はそれが発生した時の社会のある断面を断ち切るような力を持っているので、普段はなかなか見えてこない社会の深部の動きを見透かすことができる」との指摘のように、災害を切り口とすることで山村における社会の特質、または人間と自然・環境との関係を浮き彫りにすることができるというねらいもある。また、日本は山地が多いにもかかわらず、山村をフィールドとした災害史研究はいまだ手薄といえ、そうした状況に一石を投じる意味もある。  近年の学際的な研究は、単に文系内の歴史学・民俗学・地理学などが連携するだけでなく、理系をも融合させて狭い枠に囚われない新たな探究が進んできている点に特徴がある。歴史上の気候変化や自然現象・自然環境・自然災害の復元に文・理双方の研究者が協同して取り組む例も増えており、より精緻な議論が可能になってきている。山村研究会のメンバーも深く関わった総合地球環境学研究所のプロジェクト「日本列島における人間―自然相互関係の歴史的・文化的検討」(二〇〇六~二〇一〇年度)などもその例に挙げられる。最近では、地球科学などの諸学会連合団体「日本地球惑星科学連合」においても、「領域外・複数領域」という枠組の中で文理融合のセッションが毎年開催されるなど、こうした流れは定着しつつあるといってもいい。山村研究会にも地形学・林学・地震学といった理系分野の研究者が加わるようになり、古文書を読み解く際にも理系的な知見の有効性が実感されるようになった。  山村研究は、もはや林業史や鉱業史などの個別研究を寄せ集めた「山村の総合研究」ではなく、文・理の枠を超えて山村に生起する諸事象の関係性を重視した「山村世界」論ともいうべき視点 が重要といえる段階に入ってきているのである。 2 山村を襲ったさまざまな災害  早川を襲った災害として史料上に見られるのは、多くが気象災害で、雨による水害、風による風害、日照りによる旱害、大雪による雪害などが挙げられる。気象災害には、現在でも農作物に多大の被害を与える霜害や冷害もあるが、早川の古文書の中には必ずしも明確には現れてきてはいない。もっとも冷害は、本来晴天が続く時期の天候不順という現象の形で発生するので、史料上で「長降り」と表現される場合に冷害も含まれていると見ていい場合がある。また気象災害以外では、大地の活動による地震、そして流行病も広い意味では自然がもたらす災害として数えることができる。その他山村の人々が自然から受けた被害の一つに獣害が挙げられる。一見、災害の範疇に入れることは意外に思えるかもしれないが、自然のもたらす人間生活への驚異としてはごく普通のものであった。とりわけ山間地という野獣の生息域と密接した生活圏にあった早川では、獣害は深刻なものであった〔本書コラム7中西「獣害への対応」〕。また、虫害も記録に残されており、稲や畑作物に被害が出たことが知られる。  これら多種の災害の中で、もっとも史料が多く、頻繁に被害が出たとみられるのは雨に関わる災害である。早川は名前のとおりの急流であり、険しい山間地を蛇行しながら約七五kmにわたって流れ下る。上流域には三〇〇〇m級の山も聳える山深い地域であるから、流域に多くの雨が降ると多量の水が早川に流れ込み、激しい流れとなって早川に面した村々を襲うことになる〔本書Ⅰ-1長谷川・佐々木「早川の災害と地形」〕。近世早川の災害史料のうち、およそ八割が水災に関わるものである。古文書の中では「大雨」「長降り」「満水」などの用語で説明される。この雨による災害の典型的なものは梅雨時の集中豪雨と夏から秋にかけての台風であり、台風の場合は風害とセットで「大風雨」として現れることもある。元文元年(一七三六)八月の史料では、「当月一六日朝より一七日晩の大雨および一七日の大風」と雨と風の時間帯が明確に書き分けられていて興味深いが、『日本気象史料』にはこの八月一七日に関して「近畿、関東諸国 大風雨、洪水」として立項されており、現在の暦で九月二〇日から二一日という時期的に考えても、おそらく近畿地方から関東地方を縦断した広域の台風被害と推測される。「大風」だけが独立して記載される場合もあるが、ごく少数に留まる。大雨によって水嵩の増した川は、時に流域の村々の田畑を浸した。もちろんこうした災害に対し、住民たちが指をくわえて見ていたわけではない。「川除(かわよけ)」と呼ばれる治水設備を築いて必死に対応していた〔本書Ⅱ-1西川「水害への対応と治水技術」〕。  次に多いのは旱魃をもたらす日照りである。梅雨時から夏にかけての時期に少雨または全く雨の降らない期間が続くと、農作物に大きな被害が出る。こちらも食料の確保に重大な結果をもたらすため、史料上に現れやすかったといえるだろう。とくに天水に頼る畑作の割合が高かった早川では、深刻な被害を受けたとみられる〔本書Ⅲ-3成畑「災害と作物被害」〕。  この他、史料点数は少ないが雪害も見られる。江戸時代は全体的には現在より寒冷であったと考えられており、太平洋側の気候区に属する早川の場合、冬季に南岸低気圧が通過すると現在よりも降雪の可能性が高かった可能性がある。古文書には、「大雪」「雪痛」などの語が見られるが、必ずしも関連史料は多くはない。冬季も農業は行われているが、雑穀・芋・蕎麦・米など主食生 産の時期からは外れており、麦もまだ大きくは育っていない時期なので、よほどの頻度や量の大 雪でなければ被害として上申することがなかったからであろうか。  次に取り上げたいのは地震である〔本書コラム3加納「山村と地震」〕。山間地では、地震によって山崩れによる被害や山道の崩落による交通途絶など生活に直結する被害が起こりうる〔本書Ⅴ-2「災害跡地を歩く」第2節〕。早川の史料では、宝永四年(一七〇七)に発生した宝永地震や幕末の安政元年(一八五四)に発生した安政地震に関する古文書が目につく。また宝永地震か享保三年(一七一八)の伊那北部地震の影響かと考えられる冷水涌出という被害も出ている。この他、直接早川での被害ではないものの、幕末の弘化四年(一八四七)に現在の長野県北部で大きな被害を出した善光寺地震に関係する文書の写しが残されていた。他地域の災害にも広く関心を持っていたのであろうか〔本書Ⅲ-4寺島「山の地震誌」〕。 3 災害は自然と人、人と人の関係を表す  人間不在の世界で川が氾濫しても、土砂崩れが起きても、大地震が起きても、それは災害とは呼ばない。災害というのは、人がいて起きるものである。すなわち災害とは自然と人との関係の一つ、ということができる。自然の動きがどのように人の世界に影響を与えたのか、歴史学はあ くまで人の書き残した史料をもとにたどることしかできないが、自然科学的な知見を援用すれば、自然を観察する中から過去の災害の原因や痕跡を見出すことはある程度可能である〔本書Ⅰ-2小山「古文書に描かれた森林の様相から災害リスクを考える」〕。  同じ災害が発生しても、その後の人間の対応次第で被害状況や復旧状況は大きく変わってくる。現代でも災害時の被災者自身の対応や行政の対応がしばしば問われるが、それは本書で扱ってい る江戸時代でも同様であった。  被災者自身の対応としては、まず日頃からの食料保存、つまり「貯穀」が挙げられる〔本書コラム1岩橋「貯穀と早川入の村々」〕。災害は農業に打撃を与え、対応を誤ればたちまち食料不足に陥り、飢饉に襲われることもあった。とはいえ、平地に比べて貧しく飢饉に遭いやすかったと思われがちな山村であるが、果たしてそれは事実なのであろうか〔本書コラム2山本「近世山村の飢饉」〕。山村は平野部とは異なったたくましさを備えていたとは言えないであろうか。  山村民自身による災害への対応として、忘れてはならないのが呪術や祈りのもつ意味である。流行病など社会を恐怖に陥れる病という災害に対しても、それは利用された〔本書Ⅳ-3赤澤「山村における病とまじない」〕。それは現在の都市生活の感覚からすれば単なる迷信と思われるかもしれないが、他に生活を守るべき手段が限られていた時代にあっては真剣な願いでもあった。そしてそうした心性は、実はごく近年まで山村では守られてきており、実際にさまざまな祈りや習俗が現代にもつながってきていたのである〔本書Ⅳ-4松本「災害と民俗」〕。また、襲い来る自然災害を感覚としてどのように受け止め、どのように凌いでいくか、その捉え方には都市的な心性とは異なったものが現在も受け継がれている〔本書コラム4柴田「現代の早川に暮らす人々の災害の乗り越え方」〕。それは、たくましく災害の世を生きぬいてきた山村の人々の経験と知恵がもたらしたものとも理解できる。  一方、行政的な対応としては、領主による災害防御設備の施工や食料の支援が挙げられる。とはいえ、これもただ待っていれば与えられるものではない。被災した村からの積極的な要請が不可欠の前提となっていた。江戸時代には、一般的に現代の大字にあたる程度の集落が行政的な「村」として編成されており、この村が日常生活を支える生きた単位となっていたが、この村が領主に対して求める生存のための支援要請は、領主にとって無視することのできない大きな圧力となっていた。村にとっても、大規模な工事となると自力のみでの施工は困難であり、領主の支援がなければ災害に対応することはできなかった。早川の京ヶ島(きょうがしま)村でも、山間地ならではの交通を維持するためには、災害復旧に領主の力が不可欠であった〔本書Ⅱ-2高野「災害復旧にみる往還の御普請と利用」/Ⅴ-2「災害跡地を歩く」第1節〕。同村では、交通路・用水路・耕地を守る治水設備の設置や復旧のために領主への支援要請を頻繁に行ったが、その際に大事なことは、山村ならではの特性を生かしつつ、あえて支配者としてノーと言えないような巧みな要請のしかたをすることであった〔本書Ⅲ-1白水「災害をめぐる山村と領主」〕。  村からの要請には、中心となって村をリードする人物が不可欠であったが、その役目を果たすのが名主(なぬし)や長百姓(おさびゃくしょう)・百姓代などの村役人であった。村役人には領主や他の村々とのやりとりが日常的に求められ、文筆の才は必須であり、一定の教養も求められていた。災害後に幕府から指定された藩が「御手伝い普請」という形で水害防止や復旧の作業にやってくる場合があったが、そうした際にも村外の武士との交流に教養が一役買った〔本書Ⅳ-2鈴木「御普請世話人斎藤善左衛門の狂歌づきあい」〕。山深い村でも教養を武器に他領の武士たちと豊かな交流を行える人物がいたのである。  災害を契機としたこのような文化交流は、ある意味で災害がもたらした文化的な豊かさと表現することもできる。そして災害にはこれ以外にも、禍を転じて福となすような一面があった。それが流木の幸である。水害が多発した早川流域では、多くの被害が発生しているが、同時に水が引いたあとに川原に積み上がる流木は、村人にとって山からの贈り物であった〔本書Ⅳ-1田中「災害の幸い」〕。労せずして村の前に運ばれてくる材に見られるように、災害は同時に幸いをもたらす面ももっていたのである。  一方で、流木は川原の両岸の村にとって争いの対象になることもあった。災害は自然との戦いであると同時に、人間どうしの争いを引き起こすきっかけともなっていた。生き残りを賭けた村と領主、村と村の交渉しかり、また村内部での勢力争いしかりである。村内部では必ずしも一枚岩となって対外的な対応をできるとは限らなかったが、名主などの中には、中世に遡る由緒を強調し、場合によっては創作するとともに、災害への対応で実績を積み、村内での地位を確保しようとする動きも見られた〔本書Ⅲ-2柴﨑「山村の災害と歴史語り」〕。しかし、時代とともに次第に古い由緒だけで村役人の地位を維持することは困難となり、年貢負担の公平性や領主から支給される災害工事施工費の役割に応じた配分など、村運営の透明性が求められると同時に、領主との間でも有利な交渉ができる行政能力が求められるようになっていったのである。 おわりに  山村は長らく平野部の農村に比べて悪条件の住みづらいところと認識されてきた。確かに傾斜地に覆われた地形からすれば、災害の面では土砂災害や河川の急な増水が発生しやすい、あるいは獣害が起きやすいなど、平地と異なる環境はあった。しかし一方で山村ならではの有利な条件や山地環境を生かした資源や知恵・技術もあったはずである。果たして山村の住民は、その環境とどのようにつきあい、どのように生きぬいてきたのだろうか。本書を通して、山村の知られざる一面、その強靱な生命力の源が少しでも解明されればと思う。  さらに、序章の最後にもう一つ付け加えておかなければならないことがある。それは本書を作った研究会自体の振り返りである。全くの有志による地域調査団体が日本一小さな町(早川町は二〇二二年現在、原発避難地区を除けば「町」としては日本一人口規模の小さな自治体である)に三〇年にわたって通い続け、ひたすら地味に地道に史料整理をし、聞き取り・観察をしてきた結果がここに一つの実を結んだのであるが、果たしてそれはなぜ可能だったのであろうか。また、現代日本の中で当会のような小さな研究会が果たしうる役割とは、あるいは学問が地域社会になしうる貢献とは何であろうか〔本書Ⅴ-1荒垣「山村研究会と早川調査」〕。これについては、未だ我々自身が総括すべき立場にはない。読者の、そして未来の評価に委ねることにしたい。  本書全体の成果については、終章において集約的に整理するが、まずは本書への入り口として、この序章が各章やコラムを読んでいくための手引きとなれば幸いである。