<このファイルの説明 ここから> このファイルでは、写真挿入箇所や「みだし」などの本文テキスト以外の情報について、< >でくくって表しています。 <このファイルの説明 ここまで> <書名 ここから> それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける! ―世界の感触を取り戻すために― <書名 ここまで> <著者名 ここから> 広瀬浩二郎(ひろせ・こうじろう) <著者名 ここまで> <目次 ここから> はじめに―さわる文化と新型肺炎 第一部 写真集 「さわる世界旅行」 1 人生にさわる六つの手 2 紙上展示 「世界の感触」 〔コラム1〕バードカービング-世界をさわるツールとして 第二部 「ユニバーサル・ミュージアム」への道 第1章 海外出張は体外出張なり 〔コラム2〕ボイス・コンタクト-感じて動く読書法 第2章「生き方=行き方」の探究 〔コラム3〕写真を移す人 第3章「禍を転じて福と為す」 新たな博物館構想 おわりに―ポストコロナの特別展に向けて <目次 ここまで> <本文 ここから> <大みだし> はじめに―さわる文化と新型肺炎 2020年、新型肺炎の流行は人類にとって何を意味するのだろうか。オリンピック・パラリンピックは、人間の「能力」(できること)を追求する成果発表の場といえる。世間がオリパラの祝祭に沸き立つ中、その軽薄さをあざ笑うかのように新型コロナウイルスが猛威を振るっている。オリパラは人間の「能力」を可視化する。とくにパラリンピックは、「できない」はずの障害者たちが、じつは健常者以上に「できる」人であることを明示する点で有意義だろう。オリパラが人間の「能力」を再考する絶好の機会になるのは間違いない。 一方、世の中には可視化できないものがある。コロナウイルスは、「目に見えない世界」からのメッセージを伝える存在なのかもしれない。新型肺炎の流行は、「可視化=進歩」と信じてきた人類の傲慢さに鉄槌を下したともいえよう。誤解を恐れずに言うなら、オリパラはすべての人が「できる」ようになる、もしくは「できる」ようにする創意工夫の産物である。そのオリパラの開催予定年に、人間の無力さ(できないこと)を明らかにし、進歩とは何なのかを問いかけているのが新型肺炎なのではなかろうか。 近代化は、「距離」の概念に変化をもたらした。近年の情報通信技術の進展により、人間のコミュニケーションのあり方は日々変容している。人々は物理的な「距離」を意識することなく、インターネットを介して、さまざまな情報を獲得できる。飛行機や新幹線による高速移動の日常化は、「距離」を実感する身体感覚を奪ったともいえる。「距離」を感じない時代だからこそ、逆に人と人、人と物の間が離れていく。 ミュージアムは、近代文明のシンボルである。古今東西、ミュージアムでは来館者と展示物の間に「距離」があるのが大前提とされてきた。「可視化=進歩」と信じて近代化の道を邁進する人類にとって、五感の中で、視覚は最重要の感覚と位置付けられている。「より多く、より速く」情報を入手・伝達できる点において、視覚は他の感覚よりも優れているのは確かだろう。「距離」を感じない時代だからこそ、ミュージアムの来館者は物に触れず、遠くから「見る」だけの鑑賞が当たり前だと考えてきた。近代とはさわらない、さわれない、さわらせない時代なのである。 新型肺炎の流行に伴い、「濃厚接触」という言葉を頻繁に耳にするようになった。ウイルスの感染を防ぐために、濃厚接触を避ける。単純にとらえるなら、一連のコロナ騒ぎは、さわる文化の危機ということができる。しかし、そもそも接触とは何だろうか。かつて人間は「距離」を縮めるために、身体を駆使して対象物に肉薄した。中世・近世に各地を遍歴した琵琶法師の芸能を想起するまでもなく、テレビやラジオがない時代、人々の生活は濃厚接触で成り立っていたともいえる。濃厚接触で人・物に触れる際、そこには暗黙のマナー、触れ合いの作法があった。近代化の「可視化=進歩」の過程で、人類は濃厚接触のマナーを忘却してしまった。 物を媒介として濃厚接触を実践できるのが、本書で取り上げる「ユニバーサル・ミュージアム」(誰もが楽しめる博物館)である。展示物に直接触れるには、身体を動かし、手を伸ばして「距離」を縮めなければならない。展示物の背後には、それを創り、使い、伝えてきた人々の文化、目に見えない物語がある。なぜさわるのか、どうさわるのか。新型肺炎の流行は、現代社会が濃厚接触のマナーを取り戻す契機となるに違いない。 感染予防の本義は、万人が消毒に心がけ、ウイルスが増殖・拡大しないように注意を払うことである。消毒とは自分のためのみではなく、周囲に対する配慮、優しさを示すものだろう。新型肺炎の流行後に開かれるオリパラは、どんなものになるのか。2021年は究極の濃厚接触、新たな触れ合いのマナーが創出される記念の年となることを期待したい。さあ、「距離」を感じない時代だからこそ、一歩踏み出してみよう。伸ばした手の先に、目に見えない豊かな世界が広がっていることを信じて! <大みだし> 第一部 写真集 「さわる世界旅行」 <中みだし>1 人生にさわる六つの手 ※いきなり理屈っぽい話で恐縮だが、「さわる世界旅行」とは以下のように定義できる。 Ⅰ「さわる世界+旅行」=視覚優位の現代社会では軽視されがちな「さわる世界」を探究する。 Ⅱ「さわる+世界旅行」=「さわる」という方法を用いて、地球上の多様な国・地域を訪ねる。 第一部では、本書を貫くⅠとⅡの有効性、豊かな可能性を読者とともに確認していこう。第一部の1がⅠに、2がⅡに相当する。 本書は「世界をさわる」僕の体験記、研究と実践の報告である。ここでいう「世界」には、人間社会・生活環境など、さまざまな意味が含まれる。「さわる世界旅行」を始めるに当たって、まず「手」をキーワードとして、僕の人生を振り返ってみたい。そこから、“触”の普遍的な価値を提示できればと願っている。なお、本文の各所で、全盲の僕が撮影した6枚の写真を紹介する。風を撮る写真、風で撮る写真。これらは2020年6月~7月の通勤途上、全身の手を伸ばして撮った「濃厚接触」の記録である。 <小みだし>①手助け=手をつかう: 小学校時代、弱視だった僕は地域の一般校に通っていた。遠足やクラブ活動、映像を用いる授業では、弱視学級の教員が適宜サポートに入ってくれた。5年生くらいから僕の視力は低下し、周囲の健常児に付いていけない場面が多くなる。教科書が読めなくなり、黒板の文字も僕の視界から消えた。とくに難しかったのが体育と図工である。 短距離走では運動場の白線が見えないので、同級生といっしょに走れなくなった。「足は遅くないはずなのに……」。できていたことが、できなくなる。できるはずなのに、うまくできない。なかなか自分の「障害」を受け入れられない僕に対し、弱視学級の教員がいっしょに走ろうと提案した。でも、僕は先生に誘導されて走るのが恥ずかしくて、なんだかんだと文句を言って抵抗する。先生はそんな僕を一喝した。「いいかげんにしなさい」。もう40年以上も前のことなので、愛の鞭(お尻に手)が飛んできた。僕は先生の腕を持たせてもらい、懸命に走った。 あの時のお尻の痛み、先生とともに半泣き状態で真剣に走った記憶は、今でも鮮明である。「できないことを恥ずかしがらなくてもいい」「できない時は、堂々と手助けを求めよう」「あの手この手を駆使すれば、どうにかなる」。小学校の校庭で、僕は目の代わりに手を使って生きていく覚悟を固めた。そして、40年。「障害物」にぶつかり、痛い思いをすることもあったが、僕は今日も「先が見えない」状態で、白杖(はくじょう)を片手にふらふら歩いている。 <写真|著者撮影写真> <中みだし>2 紙上展示 「世界の感触」 2019年の夏から秋にかけて、国立民族学博物館の収蔵庫で「世界の感触」を求めて資料調査を行なった。本調査は、「世界の各地域の特徴を手触りにより探究・分類する」という壮大な計画の第一歩と位置付けることができる。僕は企画課の職員のサポートの下、「さわっておもしろい」「さわらなければわからない」という観点で資料を選んでいった。まさに、手探りの世界旅行である。 選定した資料は当初、2020年の企画展「見てわかること、さわってわかること」で展示する予定となっていた。しかし、残念ながら企画展の中止(特別展への一本化)に伴い、触察資料の紹介は他日を期すこととなった。手探りの世界旅行をまだまだ続けなければと、気を引き締めている(詳しくは第二部第3章を参照)。 僕が選定した資料は、写真家の平垣内悠人(ひらかきうちゆうと)さんに撮影していただいた。ここでは「紙上展示」という形で、平垣内さんが撮ってくださった資料写真で「世界の感触」を表現してみたい。僕の収蔵庫調査では、それぞれの資料との濃厚接触が重要である。平垣内さんはさまざまな角度から各資料をじっくり見て、シャッターを切る。「さわるように見る」写真家の撮影も、濃厚接触といえるのかもしれない。 濃厚接触で選ばれた資料。濃厚接触で撮影された写真。これらの資料写真を見る読者のみなさんも、ぜひ各自のスタイルで濃厚接触をお楽しみいただきたい。読者が文字どおり1枚1枚の写真に触れる時、「紙上展示」は完成する。平垣内さん、僕、そして読者の「手」が重なり合う。そこから新たな「世界の感触」が生まれる! なお、今回紹介する写真は、僕が選定した「世界の感触」資料のすべてではない。大型の資料など、撮影できなかったものがあることをお断りしておく。また、収蔵庫での調査、資料リストの整理では研究室のアシスタント・生田尚子さんにお世話になった。この場を借りて感謝の意を表したい。 <小みだし>凡例 ・軽い/硬い/暖かい/ごちゃごちゃ などのキーワードは、広瀬が資料をさわったときの印象を表している ・読者を濃厚接触に誘う解説を付した ・資料情報は   資料名   使用地   寸法を掲載 ・写真提供 国立民族学博物館 <全面写真ページ ここから> <小みだし>◆東南アジアにさわる <写真|木製椅子> <資料説明 ここから> 木製椅子 フィリピン(ルソン島) 横幅:60cm 高さ:73cm 奥行き:44cm <資料説明 ここまで> 重い 硬い 暖かい つるつる 背もたれの曲線部に贅沢さを感じる。座ると、木と一体化する気分を味わえる。 <写真|木製椅子> <資料説明 ここから> 木製椅子 フィリピン(ルソン島) 横幅:68cm 高さ:44cm 奥行き:35cm <資料説明 ここまで> 重い 硬い 暖かい つるつる 座面、背もたれの滑らかな手触りと、脚部のささくれの触感が印象的。 三角形の形状は少し痛そうだが、座ってみると身体にフィットする。 <全面写真ページ ここまで> <中みだし>第3章 「禍を転じて福と為す」 新たな博物館構想 <小みだし>【ユニバーサル・ミュージアムとは何か】 視覚障害者は「濃厚接触」のプロである。いきなりこんなことを書くと、反発を感じる人もいるだろうか。目の見えない僕が家族・友人といっしょに歩く場合、ごく自然に相手の肘(時に肩)に手を置く。近年、視覚障害者が公共交通機関を利用する際、駅員などによるサポートを気軽に依頼できるようになった。駅員は視覚障害者を誘導する研修を受けており、躊躇なく僕に肘を持たせてくれる。また、点字の触読に代表されるように、視覚障害者は日常生活において、さまざまな物にさわっている。者に触れ、物に触れることを日々繰り返している視覚障害者にとって、「濃厚接触」を拒絶する昨今の風潮は辛い。 “触”とは、単に手でさわることのみを意味しているのではない。触れる手の先には人がいて、物がある。「触れ合い」(相互接触)という語が示すように、“触”にはコミュニケーション、対話の要素が含まれている。さらに、視覚や聴覚など、他の感覚と異なる触覚の最大の特徴は、全身に分布していることである。足でさわる、背中でさわる、皮膚でさわる……。音を聴く、においを嗅ぐ、食べ物を味わうなども、広義では“触”の一部ということができる。僕は、“触”とは「全身の毛穴から「手」が伸びて、外界の情報を把握すること」と考えている。「身体感覚を総動員して体感する」と言い換えることもできるだろう。 コロナ禍で人類が「緊急事態」に直面する現在、人と人、人と物の「距離」を取ることが強調されている。これは、ウイルス感染のリスクを避ける意味ではやむを得ない。「距離」を取ることは、視覚優位・視覚偏重の近代的な価値観にも合致する。しかし、僕は「濃厚接触」の本来の意義が軽視・忘却されてしまうことに大きな危惧を抱いている。時代の流れに逆らうことになるかもしれないが、「濃厚接触」のプロである視覚障害者が、“触”の大切さを発信すべきではなかろうか。今、そんな使命感に突き動かされて、この本を書いている。 2020年9月~12月、国立民族学博物館(民博)で特別展「ユニバーサル・ミュージアム―さわる!“触”の大博覧会」、および企画展「見てわかること、さわってわかること―世界をつなぐユニバーサル・ミュージアム」が同時開催される予定だった。僕は2009年度に科学研究費を獲得し、全国の博物館・美術館、大学関係者に呼びかけて「ユニバーサル・ミュージアム研究会」を組織した。現在、この研究会のメーリングリストには100名ほどが登録している。定期的に共同研究会を行い、ユニークなワークショップも企画・実施してきた。今回の特別展・企画展は、この研究会の活動の集大成とも位置付けられる大事業である。 ところがコロナ禍により、20年4月、この展示の延期が決まった。正直、20年秋をめざして調整を続けてきたので、実行委員長である僕のショックは大きい。とはいえ、人や物との接触を回避しようとする社会状況の中で、大々的に“触”を掲げる展覧会を開くのは難しい。むしろ1年延期し、落ち着いた環境の下で、“触”の意義、「濃厚接触」の大切さを再確認できるような展覧会を具体化する方が賢明なのではないか。今は21年に向けて気持ちを切り替えている。 <大みだし>おわりに―ポストコロナの特別展に向けて 2020年4月に緊急事態宣言が出され、数年がかりで準備してきた特別展・企画展の1年延期が決まった。在宅勤務が続く日々の中で、僕は喪失感を味わっていた。「今ごろは秋の展示の実現に向けて突っ走っているはずなのに」。展示の協力者、出展アーティストに延期の連絡をした後、楽天家の僕もさすがに少々落ち込んだ。 しかし、せっかく与えられた1年の猶予期間を無駄に過ごすわけにはいかない。今、できること、やるべきことは何なのか。それは、自分のこれまでの活動を客観的に振り返り、「ユニバーサル・ミュージアム」の概念を整理して文章化することだろう。僕は本を作る、論文を発表するなど、具体的な目標は定めぬまま、とりあえず自分の考えを文字にしていった。結果的に、僕は書く行為、手を駆使する身体運動によって、コロナショックから立ち直ることができた。 書き溜めた原稿は、5月の連休明けにはそれなりの分量になった。「多くの方に気軽に読んでもらえる書籍になれば」という思いで、小さ子社の原宏一さんに相談を持ち掛けた。小さ子社に特別展の図録の編集・発行をお願いしている経緯もあり、原さんはすぐに拙稿を読んでくださった。「ピンチはチャンスなり。2021年秋の展示オープンまで、どんどん攻めていこう」。さわらない・さわらせない社会状況だからこそ、“触”の大切さを訴えていくべきだという点で、二人の意見は一致した。 ウェブ連載という発信方法は、原さんの提案である。僕にとっては初めての試みだった。原さんが拙稿に目を通し、ウェブで読みやすい分量にまとめ、見出しを付ける。毎週送られてくる原稿に僕が加筆・修正する。こんなやり取りが2か月間繰り返された。著者と編集者の共同作業でコラムを更新していくプロセスは、新鮮で楽しいものだった。連載コラムはコロナ禍の副産物、在宅勤務の大きな成果といえよう。 連載を始めるに当たって、どれくらいの読者を獲得できるのか、僕は不安を感じていた。友人・知人に案内メールを送り、URLを告知したところ、予想をはるかに上回る反響があった。「これはいけるぞ!」という手応えを得た僕は、毎週のコラムの充実に注力した。5月~6月は、コラムの記事をアップすることが僕の最優先の仕事となった。ウェブ連載の場を提供してくれた原さんにあらためて感謝したい。 5月後半以降、連載コラムを読んだ方からさまざまな問い合わせをいただいている。6月には新聞各紙からのインタビュー取材が相次いだ。自慢話になり恐縮だが、わずか1か月足らずの間に、僕に関連する記事がいわゆる五大紙(全国紙)すべてに掲載された。僕の活動がこれほどの注目を集めることはなかったし、おそらく今後もないだろう。僕は自分の記事が載った新聞を手に取り、「これもコロナ効果か」と苦笑している。 当初、原さんに渡した拙稿のタイトルは、「それでも僕は「濃厚接触」を続ける!」となっていた。連載を開始する際、タイトルについて議論し、「僕」を「僕たち」に変えることにした。「濃厚接触」を他人事ではなく、自分たちの問題として考えてほしいというのが、タイトル変更の狙いである。連載コラムの回を重ねる度に、「僕たち」の仲間が広がり、“触”の可能性に気づく、“触”の多様性を築く緩やかな流れができてきたような気がしている。この流れを2021年の特別展につなげていきたい。 7月に入り、民博は団体の受け入れを再開し、展示場における来館者対応の制約を少しずつ緩和する方向で動き始めている。「世界をさわる」展示コーナーの立ち入り禁止も解除された。手指の消毒を徹底した上で、展示資料に優しく丁寧にさわる。消毒は、「さわるマナー」の普及と定着にとってプラスに作用する。消毒で他人を思い遣る精神は、物の背後にいる者(創る人、使う人、伝える人)に接する作法と技法を育てる。コロナ禍を経験した人類が“触”の意義を再確認する場として、2021年の特別展は日本社会にとって、きわめて重要なものになるに違いない。 本文で述べたように、2020年のユニバーサル・ミュージアム展は特別展・企画展の同時開催という形式で計画されていた。だが、会期の延期に伴い、企画展の実施を取りやめ、特別展に一本化することとなった。展示の規模が縮小されるのは確かだが、会場が一つになるメリットも大きい。企画展の趣旨を包含する方針で、特別展会場のレイアウトを再検討しているところである。もちろん、展示全体のコンセプトは変更せず、出展作品数を減らすこともない。僕は特別展への一本化を「縮大」と称している。スペースは縮小するが、展示から得られるインパクトは増大させる。そんな「縮大」プランに本格的に取り組むための第一歩が、本書の刊行なのである。 全8回の連載コラムに大幅に加筆し、随所に新稿も入れて本書を完成した。本書を通じて、「濃厚接触」に関する僕なりの説明はできたと思う。いよいよ次は、「濃厚接触」の実践の機会を創出するのが僕、いや僕たちの課題である。2021年9月に開幕する民博の特別展「ユニバーサル・ミュージアム―さわる!“触”の大博覧会」へのご支援をお願いしたい。この本を読んでくださったみなさんの手で、「誰もが楽しめる特別展」を盛り上げてもらえたら嬉しい。 最後に、もう一度、声を大にして言おう。それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける! <本文 ここまで> 著者プロフィール 広瀬浩二郎(ひろせ・こうじろう) 自称「座頭市流フィールドワーカー」、または「琵琶を持たない琵琶法師」。 1967年、東京都生まれ。13歳の時に失明。筑波大学附属盲学校から京都大学に進学。2000年、同大学院にて文学博士号取得。専門は日本宗教史、触文化論。 01年より国立民族学博物館に勤務。現在はグローバル現象研究部・准教授。 「ユニバーサル・ミュージアム」(誰もが楽しめる博物館)の実践的研究に取り組み、“触”をテーマとする各種イベントを全国で企画・実施している。 『目に見えない世界を歩く』(平凡社新書)、『触常者として生きる』(伏流社)など、著書多数。 ●テキストデータ提供のお知らせ 視覚障害、肢体不自由、発達障害などの理由で本書の文字へのアクセスが困難な方の利用に供する目的に限り、本書をご購入いただいた方に、本書のテキストデータを提供いたします。 ご希望の方は、必要事項を添えて、下のテキストデータ引換券を切り取って(コピー不可)、下記の住所までお送りください。 【必要事項】データの送付方法をご指定ください(メール添付 または CD-Rで送付) メール添付の場合、送付先メールアドレス・お名前をお知らせください。 CD-R送付の場合、送付先ご住所・お名前をお知らせいただき、200円切手を同封してください。 【引換券送付先】〒606-8233 京都市左京区田中北春菜町26-21 小さ子社 <奥付 ここから> それでもぼくたちは「のうこうせっしょく」をつづける!  せかいのかんしょくをとりもどすために それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける! ―世界の感触を取り戻すために― 2020年10月27日 初版発行 著 者 広瀬浩二郎 発行者 原 宏一 発行所 合同会社小さ子社 〒606-8233 京都市左京区田中北春菜町26-21 電話 075-708-6834 FAX 075-708-6839 E-mail info@chiisago.jp https://www.chiisago.jp カバーデザイン 桑田知明 触図印刷 点字・触図工房B・J 印刷・製本 亜細亜印刷株式会社 ISBN 978-4-909782-06-9 <奥付 ここまで>